藤枝宿は2kmにも及ぶ長い宿場町、東木戸から9つの町が並ぶ

2003年4月26日

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15:30 藤枝宿へ足を進めます。

岡部の松並木

東側の松並木は、道路拡幅工事により亡くなってしまいましたが、西側の松並木は残っています。当時からのもののようです。

領界石 「従是西田中領」

田中領と岩村領との境界石です。1846年(弘化年間)頃、幕府より石材に改めるよう布令があったため、建立されました。ここにあるものは複製であり、古いものは西益津中学校正門にあるそうです。

松並木 

数本の松が残っています。

須賀神社のクス

須賀神社の創建は不詳ですが、1605年(慶長10)に再建されました。クスノキは、樹齢500年といわれ、御神木として大切にされてきました。クスノキの寿命は長く、樹齢1000年以上のものも多く残っています。

藤枝宿東木戸跡

藤枝宿は約2kmあり、この東木戸から9つの町が並ぶ長い宿場町です。

問屋場跡

1601年(慶長6)に藤枝は宿駅として成立しました。当初の数年間、問屋場は上伝馬町か所で上り下りすべての伝馬業務を行っていました。しかし、田中城から離れており、不便だということから下伝馬町に新たに問屋場が設けられ、以後、問屋場は2か所となり、上伝馬町では下りの荷物を、下伝馬町では上りの荷物を取り扱いました。 

サインは足元にあります。

藤枝における広重の浮世絵は「問屋場」を描いています。忙しそうに働く人々が生き生き描かれています。

藤枝宿

現在の藤枝宿は長い商店街となっています。本陣は2軒、旅籠37軒がありましたが、本陣跡などはどこにあったのか、わかりませんでした。

白子由来碑

天正10年、本能寺において織田信長が討たれた折、家康は泉州堺付近にいました。家康の一行は間道を選び伊賀路を越えて伊勢へ入りましたが、一揆の者たちに立ちふさがれてしまいます。野武士を追い払いなんとか伊勢国白子にたどり着きました。この村に農民の孫三という者がおり、家康は孫三に船の手配を命じました。孫三は小舟に家康を乗せて、三河国大崎まで送り届け伊勢へ帰りますが、後日駿河へやってきます。助けてもらった孫三に家康は当地に居住することを許可し、「新白子町」と名付けました。

連生寺

元は福井長者の屋敷でした。熊谷直実が出家した際に名を「連生」とし、旅の費用を借りるために、長者のところへ立ち寄ります。質草が何もなかったため、念仏十遍を唱えたところ、十本の蓮が生えたそうです。後日、蓮生が金を返しに来たときには、長者も預かっていた念仏十遍を唱えて返すと、蓮の茎に花が咲いたといいます。童謡「月の砂漠」で知られる加藤まさをは藤枝市に生まれ、加藤家の墓が蓮生寺にあることから、碑が建立されています。寺のすぐ北側に「蓮華池公園」があり、ここが長者の庭だったと言われています。

大慶寺・久遠の松

1253年(建長5)、日蓮上人が京都比叡山へ遊学の折立ち寄り、道圓、妙圓の夫婦に説教をなしご本尊と毘沙門天王を授けました。後年、夫婦は自宅に法華堂を建立して寺の基礎を築きました。寺の庫裡は1788年(天明8)相良城(田沼公)の御殿を移築したものです。中央の松が「久遠の松」で日蓮上人お手植えの松とされ、樹齢700年のクロマツで、天然記念物にもなっています。

17:30 藤枝駅に到着です。今日は藤枝駅前のホテルに宿泊します。