2017年5月4日
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昨日は「八丁蔵通り」まででした。本日は、ホテルから「八丁蔵通り」まではタクシーを使い、時間短縮しました。
9:25 矢作橋から出発します!!
矢作川
矢作橋は安藤広重の浮世絵
『岡崎・矢矧之橋』として描かれています。現在は木橋ではなく、鋼製に変わり、浮世絵に描かれている岡崎城は見えないですね。空がかすんでいて良くわからないです。
顔??宇宙人?ミステリー!!
インターネットで調べました。昭和44年から続く矢作中学校の伝統行事なんだそうです。毎年ゴールデンウィークに中学生がみんなでつくるようです。ちょうどいい時に通りかかったってことです。しばらくすると無くなってしまいますよね。
橋を渡るとすぐに旧東海道へ入っていきます。
誓願寺十三王
建立は997年(平安中期)、再建されてのは1138年です。現在ある堂に関しての記述はありませんが、むろんその後に何度も建て替えているのでしょう。浄瑠璃姫が源義経を慕うあまり菅生川へ身を投げて、義経が姫に送った名笛「薄墨」と姫の鏡を安置したとされています。
大友皇子遺跡
住宅街のほんとに小さな角のフェンスに囲まれた場所にぽつんとあります。もっと奥まで進むと「大友皇子丸藪之館跡」「薬師寺」などもあるそうです。
大友皇子遺跡
大友皇子は天智天皇の子で壬申の乱で天皇の弟大海人皇子と争って破れ、自害されたとされます。墓陵は、はっきりとはわかっておらず、候補地が大津市内などにも存在しており、必ずしもここであるとは言えないようです。しかし、この地の地名は「大友」であり、何らかのゆかりはあると思います。
薬王寺
北浦古墳
大塚公園内にある円墳?宇頭北部古墳群の1つ、古墳群は全部で3つあり、宇頭北古墳、荒子古墳、北浦古墳です。発掘調査が1988年に行われ、乳文鏡、土製勾玉、鉄刀などが出土しており、古墳時代中期と推定されているようです。
松並木
数本残っています。
熊野神社
鎌倉街道との分岐点でもあります。「目印の松」はどれでしょうか・・一里塚のところにあったもの?いずれも細くて後に植えたものですよね。
常夜灯
尾崎一里塚跡
一里塚は失われてしまいました。石碑が建立されているのみです。
予科練之碑
第一岡崎海軍飛行隊が置かれていた跡だそうです。昭和19年2月に配置され、若い隊員が全国から6000人も集められたそうです。訓練後は全国の航空隊に配属されましたが、すぐに昭和20年の終戦となり、命を落とさずに済んだ人が多かったようです。
英霊招魂碑
全ての亡くなった人を「英霊」といいます。現在石碑だらけのこの場所が一里塚だったのでしょう。
トイレの左側、奥に行く道が『鎌倉街道』だと思います。トイレは、新しくて綺麗でした。手前の石のベンチは、日陰で休憩によいです。
明治天皇御駐蹕之所
高井善兵衛の茶屋「藤屋」跡
明治元年(1868年)から11年までに4回休憩されました。「藤屋」は明治用水工事のさい、県の役人や技師の打ち合わせ場所や宿泊所、また完成時の祝賀会の主宴会場にもなったそうです。このあたりには立場茶屋が何軒かあったところで、宇頭茶屋村となりました。
永安寺『雲竜の松』
高さ1.5m程度のところから横へ伸びています。まるで藤のようです。
永安寺
大浜茶屋村の庄屋、柴田助太夫は、村に助郷役を命じられたとき、免除を願い出ましたが、刈谷藩は助太夫を死罪としまが、助郷役は免除され、免除は幕末まで続いたそうです。
村の人々は助太夫に感謝し、助太夫の旧宅跡に草庵を建立、後に寺として整えました。それほどまでに助郷役は街道筋の村人を困窮させていたのでしょう。
明治用水碑
明治用水が造られる以前のこのあたりの台地は常に水不足でした。ため池の水を巡って村同士で争いがおこったりしていました。井戸を掘りますが、つるべでの水汲みはかなりの重労働でした。
1827年、都築弥厚が農民の貧しさを救うため、矢作川から台地に水を引くことを提案します。1833年、幕府が許可するものの、今度は農民の反対にあい、なかなか実現しません。
農民が自分たちの利益になることになぜ反対したのか?
台地が水浸しになって土地がつぶされ、薪や肥料をとる土地がなくなるのではないか・・、と考えられたようです。新しいことはなかなか理解されにくいですね。昔も今も同じです。
1826年までに5年を要して測量が行われました。測量は反対した農民の目に触れぬよう、提灯や行灯を使って
夜に行われていたそうです。1872年、愛知県から許可が下りますが、
工事費を集めることにまた苦労しました。なんとか6万円(現在の価値で9億円)を集め、1880年に完成しました。
計画から完成まで実に53年かかっていることになります。こうして多くの人の血のにじむような苦労の末、巾3.6m〜7.2m、全長52kmの明治用水が出来上がったのです。
明治川神社
明治川神社には工事に功労した人々が祀られています。
明治用水はその後も支線40本を掘り続け、1885年には全長280kmとなります。1969年(S44)に国の事業により地下化され、現在は暗渠となり、上部は遊歩道や自転車道として整備されています。
猿渡川に架かる猿渡橋
猿渡川のいわれ
むかし、弘法大師が関東から都へお帰りになる途中、知立の辺りをお通りになりました。川はあるが橋がありません。川下を見ますと、親猿が三匹の子猿をつれています。兄猿と弟猿二匹は、仲が悪くけんかをしています。
どうして渡すだろうかと、大師様が見ておいでになりますと、親猿は、最初に、兄猿を背負って浅瀬を渡り向こう岸にいき、兄猿一匹を置いて引き返しました。 二回目には、弟猿を向こう岸に渡し、兄猿をつれて帰りました。三回目には、兄猿を一匹、こちら岸に残して、末の弟猿を向こう岸に渡しました。四回目には、 また、兄猿を背負って、こちらの岸から向こう岸に渡り、けんかをしていた兄猿と弟猿をいっしょにすることなく、じょうずに川を渡って行きました。
猿でさえ、困難に出会えばいろいろ考えて、その困難に打ち勝っていく姿を大師様はご覧になって、非常に感心なされ、その川の名を猿渡川(さわたりがわ)と名づけられました。猿の渡った所は、弘法山遍照院の南下のあたりと伝えられています。
来迎寺公園
猿渡橋を渡ってすぐの公園です。13:00 ここで休憩しました。綺麗なトイレとベンチがあります。
玉乃井
来迎寺公園内にあるのですが、いわれが全く不明です。説明板も無いですしインターネットでも情報がありません。
綿旗千載餘光碑
1890年(明治23)日本初の陸海軍連合大演習が愛知県知多郡半田町(現半田市)を中心に行われ、この時の明治天皇観閲の地としての石碑のようです。
来迎寺町交差点の道標
元禄の道標
「従是 四丁半北 八橋 業平作観音有」と彫られています。
来迎寺一里塚
新しいものだと思われますが、松が植えられています。塚はとても綺麗に残っています。
両方残っているのはかなり貴重です。
なにこれー!!
信号の押しボタンですが・・「コノハけいぶ」と名前ありました。調べるとゆるきゃらなんですね・・ボタンカバーになっているとは!!
元禄の道標
「従是 五丁半北 八橋 業平作観音有」と彫られています。
知立の松並木
近年まで1kmほども続いており、戦前は昼でも暗いほど老木が鬱蒼としていたそうですが、昭和34年の伊勢湾台風で60〜70%の松が無くなり、昭和45年に158本補植しています。現在の松は、まだ45年ほどです。宅地開発などで現在の延長は450m程度だそうです。
ちょうどカキツバタが綺麗に咲いていました。カキツバタは知立の花だそうです。
馬市の跡
鎌倉時代から馬に関する文献があり、かなり早い時代から馬に関係する土地だったようです。
安藤広重「東海道五十三次 首馬夏市」
馬市が盛大に行われていたことは数々の文献に登場し、甲斐や信濃からも馬が集められ、4〜500頭にもなったそうです。
国道を地下道で渡ります。地下道を渡ると池鯉鮒宿中心地となります。
知立城跡
知立城の築城年代は定かではありませんが、知立神社神官永見氏の居館が始まりとされています。
このあたりの一帯は、中世は足利幕府直轄の荘園、重原荘の一部で、永見氏は足利幕府から神領を公認されていました。
戦国時代には今川義元に仕えますが、桶狭間に倒れると織田軍によって落城しました。
御殿跡
天正年間に刈谷城主水野忠重によって織田信長を饗すための御殿が建てられ、寛永年間には、将軍上洛時の宿泊施設にもなりましたが、1699年(元禄12)の大地震により倒壊しました。その後は、再建されませんでした。
お万の方
徳川家康の側室である
お万の方。知立神社の神官で、知立城主であった
永見淡路守中務丞貞英(吉英)の娘であるとされています。1573年(天正元)、家康は
築山御前(家康正室)の世話係をしていた於万を側室にします。1574年(天正2)、お万は家康の子、於義伊(結城秀康、後の越前松平家の初代当主)を産んだとされます。家康が永見氏を臣従させたときに万を仕えさせることを約束させ、元亀三年に浜松城に仕え、於義伊を産んだともされます。
thirty nine cafe
城跡の隣のカフェの建物が素敵でした。
池鯉鮒宿は古い建物がちらほら残っていますし、道も狭く車通りも少なくて雰囲気はいいです。
了運寺
了運寺の創建は不詳ですが、知立神社の別当寺院であった神宮寺七坊(平安時代に天台宗の高僧である慈覚大師が知立神社の別当寺院として開山した寺院。)として開かれたのが始まりと伝えられています。明治時代、総持寺が廃寺となると、多くの仏像が了運寺に移されて、大正時代に総持寺が再興されると戻されています。
SANSANMAN
面白いキャラがあったので。そろばん塾のキャラ?
知立神社
知立神社の創建は112年(景行天皇42)、日本武尊が東夷東征の際、伊知里命に命じて祖神の分霊を勧請し192年(仲哀天皇元)に社殿が造営されたのが始まりと伝えられています。知立神社は、熱田神社・三島神社とともに江戸時代には、東海道を往来する旅人から東海の三名社と崇められた神社です。
総持寺
創建は850年(嘉祥3)、慈覚大師円仁が行脚でこの地を訪れた際、毒蛇に噛まれ重篤となり知立神社に祈願したところ忽ち治癒しました。大師は感謝し、別当寺院となる神宮寺を開いたと伝えられています。明治時代初頭に廃寺となりますが、1927年(昭和2)に再興され、現在地に境内を移して堂宇も再建されました。
逢妻川(あいづまがわ)に架かる逢妻橋を渡り、国道へ進みます。
秋葉常夜灯
常夜灯には寛政8年(1796年)と彫られています。
洞燐寺
1580年(天正8)、に
刈谷城主水野忠重により開山されました。傾いた3本の松ががなんともいい雰囲気です。
いもかわうどんの碑
案内板によると、『江戸時代の東海道紀行文にいもかわうどんの記事がよくでてきます。この名物うどんは「平うどん」で、これが東に伝わって「ひもかわうどん」として現代に残り、今でも東京ではうどんのことをひもかわと呼ぶ』と説明されていますが、うどんのことは「うどん」と呼びますね。「ひもかわうどん」も聞いたことはありますが。
富士松駅
トイレに寄るために駅までやってきました。名鉄名古屋本線の駅はほとんど外にトイレがあったので有り難いです。
用悪水路(ようあくすいろ)
橋の柱に「用悪水路」、「用悪水路」は、土地の地目として使用されていますが、橋の名称になっているのは初めて目にしました。用悪水路は、用水路と悪水路が組み合わさった言葉で、主に灌漑用の水路として使用される土地です。
境橋と烏丸光廣の句碑
境橋は刈谷市と豊明市の境となっています。1601年に尾張と三河で橋が架けられましたが、尾張側は板橋、三河側は土橋の継ぎ橋となってしまいました。洪水で何度も流されますが、やがてひと続きの土橋となり、明治になってから欄干付きの橋になったそうです。
『うち渡す尾張の国の境橋 これやにかわの継目なるらん』
狂歌、古今夷曲集の中の一句です。狂歌とは、社会風刺や皮肉・滑稽を盛り込み、五七五七七の音で構成した短歌です。
継橋で有名なこの橋を膠(にかわ)と三河を掛けています。
16:50 豊明駅 本日のゴール!!
ここから3つの駅を戻り、知立駅近くのルートイン知立に宿泊しました。
歩行距離は約20kmでした。
知立と池鯉鮒
最後に江戸時代、なぜ知立を池鯉鮒と書いたのか調べてみました。吾嬬路(あずまじ)江戸時代中期頃に書かれたとする紀行文には、
『ちりふの町の右のほうに長き池(御手洗池)あり。神の池なり。鯉、鮒多し。依って名とす。』という一文があるそうです。御手洗池に鯉、鮒が多いから名前とするよ、というようなことでしょうか。言葉遊びでもあるんですね。