2003年8月23日
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16:30 浜松をあとに舞坂へ向かいます。
二ツ御堂(薬師堂)
二ツ御堂(阿弥陀堂)
上京中の藤原秀衡が病に倒れ、知らせを聞いた側室が京へ向かう途中ここで秀衡の死亡の知らせを聞きます。ここにお堂を建てて菩提を弔い自身もここで亡くなります。しかし、秀衡の死亡の知らせは誤報であり、その後回復した秀衡はここを通り、側室の話を聞きもう一つのお堂を建てたといいます。
秀衡の松
二つ御堂の西に周囲二丈余(約六メートル)の秀衡の松と呼ばれる古い松がありました。「秀衡の側室の亡骸を埋めた所に、秀衡が植えた松である」とつたえられています。 明治十五年頃までは老木となって残っていました。
秋葉常夜灯
熊野神社・高札場跡
将軍足利尊氏の推す北朝方の光明天皇の1344年(康永3)に創建されたと言われています。古来は、熊野三社大権現と称してきましたが、明治2年に六所神社と改称し、明治5年頃より、神社明細帳にもれた祠の当社への合祀が進められ、明治7年には再び熊野神社と改称されました。神社の参道脇に高札場があったようです。
堀江領界石
堀江藩は、明治維新期の短期間、遠江国に存在した藩です。もともと大沢氏の知行地である堀江領がありましたが、大政奉還後の1868年(明治元)に実高が1万石以上あると届け出、明治政府から藩として認められました。1871年(明治4年)の廃藩置県により堀江県となりますが、石高の虚偽申告が発覚して知事(元藩主)の処罰に発展しました。(万石事件)
万石事件
1868年(明治元)に新政府に対して行った検地報告で、堀江領は実高5485石に過ぎませんでしたが、大沢基寿は浜名湖の湖面の一部を
「開墾予定地」として架空の新田内高4521石を計上し、都合1万6石という虚偽の報告を行ないました。当時新政府樹立で混乱と極めた新政権はこの報告の裏付けもとらずに額面通りに受理した結果、堀江領は万石を知行する諸侯とされ、堀江藩藩主として認められます。そして翌明1869年(明治2)「版籍奉還」により堀江藩知事となり、華族の身分を得ることに成功します。しかし、新政府が再調査したところ石高に虚偽が発見され、基寿は士族へ格下げされた上、禁錮1年という処罰が下りました。また堀江県は浜松県に合併され、堀江県は消滅しました。
篠原一里塚跡
江戸日本橋より67里目の一里塚です。東海道宿村大概帳に「壱里塚木立左松右榎 左右の塚共篠原村地内」と記されています。現在は民家の庭先で面影はありません。
18:00 舞阪駅到着です。JRで豊橋駅へ向かい一泊しました。
2003年8月24日
9:00 再びJRで舞坂駅まで戻りました。本日は、ここからスタートします。
松並木
江戸幕府が慶長9年に街道の両側に松や杉を植えさせたことに始まります。正徳2年には見附石垣から村境まで、道の両側の堤に1420本の松が植えられていました。現在は340本。700mにも及ぶ松並木です。
舞坂 今切真景
舞坂から新居までは海上一里半を船で渡っていました。かつての浜名湖は遠淡海(遠江)と謳われる淡水湖でしたが、室町時代の1498年(明応7)の大地震による大津波により陸地が切れて入海となりました。その切れ口を今切と呼びます。地震以前は新居まで徒歩で行くことができました。今切ができたため、渡船となったのですが、逆波の侵入によって船の航行に支障が出るため幕府の命により木杭をびっしりと打ち込み、波の侵入を防ぎました。杭により船の安全は守られましたが、杭の部分に砂が打ち寄せられ溜まり、島となりました。
浪小僧
浪小僧は、遠江国一帯に伝わる妖怪で、遠州七不思議の一つに数えられています。妖怪といいますが、とてもかわいい姿です。
浪小僧の伝承
奈良時代の僧・行基が母の快癒を祈願して2体の藁人形を作り、田植えをさせました。行基は田植えを終えた藁人形に読経を聞かせた後、風雨の災害が起きる時は必ず事前に人々へ知らせるよう言い聞かせて久留女木川(都田川の旧称)へ流しました。藁人形のうち1体は海へ流れ着き、漁師が仕掛けておいた網に引っかかります。海から引き上げられた浪小僧は助けてくれれば波の音で天気を知らせると約束し、浪小僧を解放しました。こうして遠州灘の波の音は「雷三里、波千里」と呼ばれる地鳴りに似た独特の響きを持つようになり、漁師たちは波の響きが南東から聞こえれば雨、逆に南西から聞こえれば晴れと知ることが出来るようになったそうです。
東見付石垣跡
1709年(宝永6)の古地図には既に石垣が存在しています。見付けは見張所にあたり、大名が通行の時などにはここへ六尺棒を持った番人が立ち、人馬の出入りを監視すると共に治安の維持にあたったところです。この付近の地名を「棒鼻」といいます。
新町常夜灯
正面に「秋葉大権現」、西面に「津嶋牛頭天王」南面に「両皇大神宮」と彫られており、文化12年に建立されました。江戸時代の舞坂は、よく火災に見舞われ、特に1809年(文化6)には宿場の大半を焼く大きな火災がありました。火防の山、秋葉信仰はますます盛んとなりました。
舞坂一里塚跡
天保年間の宿村大概帳には「左右の木立共松」と書かれていますが、口承では大正時代までは一抱え半もある大きな榎が植わっていたと伝わります。
舞坂一里塚公園
ベンチがあるだけの小さな公園となっています。
広重 舞坂今切真景
今切が描かれ、荒々しい山の向こうに優美な富士山が顔を出しています。逆波よけに打たれた杭が手前に描かれ、奥の船は蛤漁をしています。
舞阪宿
舞坂宿の北側には新川に沿ってたくさんの養魚場があり、ウナギ・スッポンなどが養殖されています。この地で養殖が始まったのは、明治中期からでした。
宝珠院
参道の常夜灯は1809年(文化6)に建立されました。舞坂の海苔養殖は1820年(文政3)諏訪の海苔商人、森田屋彦之丞と江戸のノリ職人である大森三次郎が始めました。境内に二人のお墓があります。また、明治20年頃、二人の偉業をたたえて、供養碑が建立され、毎年2/6の海苔の日に供養碑前で海苔供養祭が行われているそうです。
本陣跡
舞坂には宮崎本陣、源馬本陣の2軒の本陣がありました。本陣跡の石碑は1つしかありませんが、この場所に隣あって2軒の本陣があったようです。現在は石碑が建つのみです。
脇本陣 茗荷屋
堀江清兵衛が務めていました。1838年(天保9)に建てられた上段の間を持つ書院が残されています。旧東海道で唯一残る脇本陣の遺構として、大変貴重なものです。1997年に書院を修繕し、同時に主屋なども復元し公開されています。
西町常夜灯
1813年(文化10)の建立です。
本雁木
渡船場を「雁木」と呼びました。雁木とは階段状になっている船着場をいい、本来は「がんぎ」と読みますが、舞坂では「がんげ」というそうです。ここは、東海道を旅人が一番多く利用した主要渡船場の本雁木跡で、東西15間、南北20間の石畳が往還より海面まで坂になって敷かれていました。新居へ向かう船は季節によっても変わりますが、朝4時から夕方の4時まででした。
北雁木
1657年(明暦3)から1661年(寛文元)にかけて造られた今切渡しの渡船場です。舞坂宿には3か所の渡船場がありましたが、一番南の「渡荷物」は主に荷物の積み下ろしをし、この
北雁木は主に大名や幕府公用役人が利用したところで、往還から巾18mの石畳が水際まで敷き詰められていました。
那須田又七顕彰碑
那須田家の先祖は豊臣氏に仕えていましたが、大坂の役の後、舞坂で農業を営むようになりました。又七は1784年(天明4)に生まれ、16才で舞坂宿問屋場の書記となりました。その後村役人、宿役人を長く務めました。産業振興に努め、海苔養殖の基礎を作り、飢饉のときには私費を投じて救済事業を行いました。その功績により、苗字帯刀を許され、「袱刀爺爺(ふくさがたなのやや)」と名乗りました。1858年(安政5)に顕彰碑が建立されました。
弁天島の鳥居
赤い鳥居は弁天社の鳥居です。江戸時代に土地の人が航路の安全のために祀ったそうです。
10:00 舞坂をあとに新居へ向かいます。