「天下を制す」瀬田唐橋で琵琶湖を渡り、船運の拠点膳所城へ

2018年07月16日

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9:00 ホテル出発します。昨日はホテルの近くでゴールでしたので、今日はホテルから歩いて昨日の位置まで戻りました。

月輪大池への道標

「名勝 月輪大池 南へ1粁」と彫られています。昭和57年建立の新しい道標です。『粁』はキロメートルとよむそうです。

月輪寺・新田開発発祥之地石碑

明治天皇御東遷御駐輩之所

元々は原野でしたが、江戸時代に入って開墾が進められました。1676年(延宝4)大萱新田となり、1874年(明治7)月輪村と改称されました。

月輪立場跡

下月輪池・山ノ神池

月輪大池はもっと南にあり、通りませんでした。この池は東側が「下月輪池」、西側が「山ノ神池」というようです。

月輪一里塚跡

大きな松の木が植えられた一里塚でしたが、明治末期に撤去されました。「一里山」という地名が残っています。

野神社跡

平安時代、大江千里の奥方の旧居跡とされています。大江の地を荘園として持っていたという「大江の千里」は平安時代前期の歌人で、三十六歌仙のひとりとして、また、百人一首の第二十三首の歌人として著名な人でした。その奥方がこの地に住んでいたとされ、村人はその跡地に野神社を建てたといいます。

題目塔

今までいくつもの題目等を見てきました。鎮魂のための供養等です。谷口法悦が全国に百基以上の題目等を建立しましたが、これもその一つでしょうか・・

ここで東海道は右へ行くのですが、ちょっと寄り道しまして、「近江国庁跡」へ向かうため真っ直ぐ進みます。

近江国庁跡

このあたりは、奈良時代に国庁を建設するため、谷であったところを造成し、平地にしたそうです。かなり大規模な建物が2棟建っていたそうです。

周辺には多くの建物が建ち、何らかの仕事を分担して行っていたとみられます。8〜9世紀頃に建造されたと考えられており、地面に穴を掘り、直接柱を立てた掘立柱建物が建築されていました。

公園となっていて、四阿もありいい休憩場所でした。 ここまで来てしまったので、神領団地を通り「檜山神社」に向かいました。

檜山神社

檜山神社裏の山道を登ると檜山神社の社へでます。ここから再び、東海道へ戻ります。

たにし飴の辻松商店

今日はお休みのようで、残念です。原料がたにしではなく、形がたにしに似ているところから、「たにし飴」のようです。ニッキと黒砂糖の味のようです。

建部大社

11:20 建部大社 せっかくですので、またちょっと寄り道して建部大社へ向かいます。

316年、御妃布多遅比売命(ふたじひめのみこと)が神崎郡建部の郷に日本武尊の神霊を祀られたのが始まりとされます。神話の世界そのままのような社殿、荘厳で厳かでした。

頼朝公の出世水

源頼朝が源氏復興祈願をし、出世・必勝のご利益があるといわれています。

いよいよ「瀬田唐橋」、琵琶湖を渡ります。

道標 太神山不動寺

瀬田唐橋の手前の道標です。ここから9kmほど東南の太神山山頂付近にあるようです。平安時代の初期、智証大師円珍が創建。本堂は南北朝時代に再建され、巨大な花崗岩の上に建っているそうです。

常夜灯と山崎茶酔の句碑

『松風の帆にはとどかず夕霞』 しかしこの山崎茶酔とは誰なんでしょうか。全く情報がありません。

瀬田唐橋

日本書紀にも登場する名橋です。織田信長により現在の大橋・小橋に整備されました。「唐橋を制するものは天下を制す」といわれていたほど京都へ通じる軍事・交通の要衝であり、何度も戦乱の舞台となりました。

俵藤太秀郷むかで退治

豪傑の誉れ高き秀郷は、瀬田橋に横たわる66mの大蛇の背を易々と踏み越えます。すると大蛇は爺さんに姿を変え、話を聞けば、三上山に7回半も巻きついた 大ムカデが琵琶湖の魚を食い尽くして人々が困っているといいます。秀郷は大ムカデ退治を引き受け、矢でムカデを射抜き、大ムカデは消えうせます。爺さんは武勇を称え、橋の下にある竜宮に招待し、秀郷は一生食べきれないほどの米俵を土産にもらいここから「俵藤太」の名がついたとされます。

瀬田唐橋は、歴史をきざむ日本の名橋として「日本の道100選」にもエントリーされています。

橋をわたった所にあった「瓦屋さん」。いろいろな物が瓦で造ってありました。

逆縁之縁切地蔵大菩薩 蓮如上人御影休憩所

寛政の法難で逃れた蓮如上人の足跡はあちこちにあるようです。しかし、蓮如上人を調べて驚いたのは、結婚が5回、子供の合計27人、なんと最後にもうけた子供は84歳の時だとか。布教活動にも精力的だったようですが、子作りにも精力的だったようです。

中興了源上人舊跡

長徳寺前の石碑です。了源上人は鎌倉時代の浄土真宗の僧です。仏光派中興の祖といわれ、東海道を用いて布教に向かう際にはここを拠点としていたそうです。 「中興」は、「復興」と同じような意味です。

「粟津一里塚」がこのあたりにあったようですが・・・現在は何もないです。場所もはっきりとはわかっていないようです。

農業試験研究発祥の地

明治28年4月1日、旧東海道の向かいに広がっていた粟津が原(旧膳所村別保)に滋賀県農業試験場が開設しました。以来100年を迎えるにあたり碑を建立した、と書いてあります。

昔は綺麗な田が広がっていたのですね。現在は工場地帯です。

膳所城勢多口総門跡

ここから膳所城の縄張りに入ります。

枡形があり、古い町並みが残っています。

若宮八幡神社

境内横で少し休ませていただく。手水舎の水は井戸水のようでとても冷たく気持ちいいです。

若宮八幡宮の表門

元々は膳所城の犬走り門で、1870年の膳所城取り壊しの際にここへ移築されました。確かに小さ目な門ですが、「犬走り」というほどでもないです。結構立派です。

「杉浦重剛先生誕生地」の石碑

杉浦重剛(1855〜1924年)教育家。雑誌「日本」、新聞「日本」の創刊に尽力しました。日本主義を主張し、日本中学校創立(現在の日本学園)、東宮御学問所御用掛を歴任しました。。

晴好雨竒亭跡

奥村菅次寿景(1788〜1840)膳所の名金工師であり、この景勝地に居を構え、金銀鋼鉄器類をはじめ、櫓時計、鉄砲なども製作していました。頼山陽(江戸時代の文化人)、貫名海屋(幕末の文人)なども来訪し山陽によって「晴好雨竒亭」と名づけられます。菅次の作品は現代にも残っており、またその流れを受け継いだ職人もいるそうです。

「奥村歯科」・・菅次の子孫は歯医者さんでしょうか。現在は景勝地だったことが嘘のように・・住宅街の中です。昔はこの辺まで琵琶湖が迫っていたのでしょう。

このあたりから軽い熱中症に見舞われます。

膳所城(ぜぜじょう)

膳所城(ぜぜじょう)は、関が原の戦いで勝利した家康が翌年、琵琶湖の船運を抑える目的で築城したものです。
TOO001 当初は本丸と二の丸、三の丸が分かれていましたが、1662年(寛文2年)の大地震で被害を受け、その後に本丸と二の丸を合体させ、東西約144m、南北約99mの本丸として再生しました。

穏やかな琵琶湖

膳所城につくと、長いベンチに横になり、ヒヤロンでわきの下、首の裏を冷やしてもらいます。公園内には自販機もありドリンクものみます。 30分以上横になっいてようやく息苦しさから開放されました。軽い熱中症ですね。今日の気温も35°は越えました。

もう今日は、これ以上は危険だと一番近くの駅から帰ることにします。京阪電車 膳所本町駅へ向かって歩き出します。

膳所神社

正面の門は、膳所城の本丸大手門。また北門も膳所城の城門です。

14:30 膳所本町駅到着
大津まであと3kmくらいでしたが、たどり着けませんでした。3日目だったので、疲れが出てきたのでしょうね。 帰ってからがまた調子が悪かったです。熱中症から腎臓の働きが悪くなったようで、3日ほど全然尿が出ず、どんどん浮腫みました。4日目から少しづつ増えていき、 1週間で全く元に戻りました。ほんとうに熱中症は怖いですね。

真夏は万が一のために、ヒヤロンを持ち歩くことをオススメします。

次回で東海道最終回になると思いますが、少し涼しくなるまでお休みです。