2003年4月28日
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11:30 掛川をあとに袋井へ向かいます。
松並木
旅人を風雨から守ってくれていた松並木をぬい、袋井宿へ向かいます。
細田村
細田村あたりには茶屋があり、四個の丸餅を串に刺した「はりつけ餅」が有名でした。写真は酒蔵だったと思いますが、今は営業していないようです。
善光寺・仲道寺
790年(延暦9)坂上田村麻呂と百済王が賊徒討伐のために奥州に向かう途中、兵が難病にかかり徒行困難に陥りましたが、この地で療養し持参していた阿弥陀仏に祈願したところ、悪病の難を逃れ、善光寺を建立したと伝わります。仲道寺は、1733年(享保18)に掛川市高御所の正法寺から和尚を招き、善光寺の境内に堂を建立したことに始まると伝えらえています。寺名は、その昔、江戸から京都までを測量したところ、ちょうど東海道の中間地点に位置したことからその名が付いたと言われています。
松並木(岡津〜原川)
官道として東海道が開かれたのは1200年前、鎌倉時代です。江戸時代になると街道の再整備が行われ、この時に街道の両畔に松を植えました。近年、マツクイムシの被害にあい、岡津・原川間には僅かに残っているだけです。
大池の一里塚跡(連祐寺)
日本橋から59里目の一里塚跡です。遺構は何もありませんが、連祐寺前に標柱があります。
間の宿 原川
文化・文政年間の「掛川誌稿」によれば、家数は46軒と記されています。原川薬師と呼ばれた金西寺の阿弥陀仏に供える薬師餅を商う茶屋や酒屋が軒を連ねていました。
原野谷川に架かる同心橋を渡ると、橋の袂が
名栗の立場跡です。その昔、昼食となった大名行列の随行の同心たちが河原で食事をしたことから由来しています。
名栗の立場跡
花茣蓙(はなござ)を商う店が軒を連ねていました。現在は、花茣蓙公園という小さな公園になっており、秋葉山常夜燈の鞘堂、道標「従是西東海道御本射可睡三尺坊大権現」があります。
名栗の花茣蓙
藺草をいろいろな色に染め、花模様をしたむしろ『花茣蓙』が有名でした。花茣蓙についての記載が、『東海道中膝栗毛』の一節にも登場してきます。
十返舎一句『東海道膝栗毛』の一節
掛川城下を西へ一里十丁 原川薬師に参詣し、軒を連ねた通りを過ぎ 瀬川を渡れば早名栗 松並木を西に見て立場茶屋へ着く 名代の甘酒に舌鼓 ここは布井の宿までの合いの宿 旅籠もあり 名物の花茣蓙を売る店が軒を連ね 上り下りの旅人が珍しいと買っていく
松並木(名栗〜久津部)
細い松は近年植え替えられたものでしょうが、雰囲気は広重の行書版の浮世絵に描かれた風景とそっくりです。
富士浅間宮 赤鳥居
富士浅間宮の参道入口です。東海道分間延絵図にもその姿が描かれています。社殿は北へ900mほどにあり、現在は鳥居と社殿の間に国道1号や東名高速が通り周辺には多くの工場が建ち並び鳥居だけが取り残されていますが、江戸時代には東海道から木々の間に社殿を見渡すことができたそうです。
社殿は桃山中期の建立で三間社流造桧皮葺。「三間」とは、社殿正面の柱と柱の間の数です。「流造」とは、屋根の形で流れるような曲線が庇になるような形のことをいいます。「桧皮葺」は桧の皮で屋根を葺いているということです。
妙目寺 日蓮上人父母顕彰碑
日蓮は、この地の貫名氏の子孫です。境内奥に貫名氏三代までの墓と日蓮の両親の供養塔があります。
日蓮上人父母
藤原氏の末裔、井伊左衛門盛直の末子、四郎政直が山名郡貫名村に所領を得て館を築き、村名を氏としました。これが
貫名氏の始祖でここから4代目の
次郎重忠が日蓮の父です。重忠32歳の時に一族に所領の争いが起き、重忠は関与していなかったのですが、鎌倉幕府の沙汰として安房国(千葉)へ流されました。流された先で妻が懐妊し1222年(貞応元)日蓮を生みます。父重忠は病に倒れ亡くなります。遺言によって貫名に埋められます。後に本山である身延山久遠寺の三世日善は、1332年(正慶元)日蓮の両親を供養するためにこの地に堂を建立し貫名山妙日寺と命名します。
久津部一里塚跡
日本橋より60里目の一里塚です。塚は既にありませんが、小ぶりですが、塚らしく復元してあります。
秋葉山常夜灯
火伏の神様、秋葉山三尺坊大権現に対する庶民信仰は、江戸時代に入って盛んになりました。特に東海から関東地方にかけて数多くの秋葉講 が生まれ、各地に分社や常夜灯が建てられました。
広重「行書東海道五十三次之内 袋井」
主要な街道の両側に並木を植えることは古代より行われ、759年(天平宝字3)に諸国の駅路に果樹を植えたのが始まりとされています。「信長公記」には1576年(天正3)信長が「路辺の左右に松と柳を植えおく」と記され、1604年(慶長9)には徳川秀忠が「諸国街道一里毎に候塚を築かしめられ、街道の左右に松を植しめらる」と、一里塚と一緒に並木を整備したことが「徳川実記」に記されています。
新屋の秋葉山常夜灯
新屋の常夜灯は木造屋形で、一見すると常夜灯には見えませんでした。作者は不明ながら見事な彫物がみられ、保存状況のたいへんよい常夜灯です。
袋井宿東見附
ここから袋井宿です。鎌倉時代には「布井(ほい)」と呼ばれていました。江戸時代の名物はすかし凧と鮒、するめ焼きは茶店で売られていました。現在の袋井の名物は「クラウンメロン」です。かなり高級で1玉5000円以上します。
天橋の親柱
天橋(阿麻橋)は、袋井宿の東の入口に架かっていた土橋で広重の「出茶屋ノ図」にも描かれています。
東海道どまんなか茶屋
初代広重の描いた「袋井出茶屋之図」をモチーフに建てられた茶屋です。休憩所になっています。
東本陣跡
袋井宿本陣は3軒ありました。東本陣は「壱番御本陣」とも呼ばれ、代々田代家が営み、田代家は問屋と宿役人も兼ねていました。大田家が中大田本陣と西大田本陣を務めていました。
日本橋から27番目の宿駅、京からも27番目ということで、
袋井宿のキャッチフレーズは「東海道どまんなか」東海道の旅もちょうど中間地まできました。
袋井宿場公園
袋井宿は約600mあり、本陣3軒、旅籠50軒。「遠州三山」に行く参詣客もあり、ごった返した宿場でした。「遠州三山」は、油山寺、可睡斎、法多山で、法多山は725年、油山寺は701年、いずれも行基上人が建立した古刹です。可睡斎は1401年に開かれ、家康とのエピソード「眠る可し」から名がついたという逸話があります。寄りたいところですが、いずれも歩いていくには遠すぎますので、またの機会にしたいと思います。
可睡斎と徳川家康
可睡斎十一代目の住職、等善は家康が今川の人質となっていた時に助け出したことがありました。後に浜松城主となった家康が住職を城へ招きます。ところが家康と対面する席上で和尚はコクリコクリと居眠りをしてしまいます。家康は怒りもせずに、和尚が無警戒で安心しきっている証拠としてかえって喜び、
「眠る可し」と言ったそうです。このエピソードから寺の名が「可睡斎」となったとされます。
西見附・高札場跡
御幸橋はかつての中川橋が袋井宿の西の入口でした。復元された高札場があり、ポケットパークとなっています。常夜灯は元々東海道北側にあり、南側約30mの円信寺跡には1800年(寛政12)に建立された常夜灯 が今も残っています。
旧澤野医院
1727年(享保12)に作られた『山名郡川井村差出明細帳』には本道(内科)医としてその名が記され、代々地域医療を 担っていました。居宅は1854年(安政元) に起きた大地震の翌年再建され、洋館は1916年(大正5)、病棟は1934年(昭和9)に建築されました。現在は袋井市が建築物の寄付を受け、記念館なっています。
14:30 東海道中は折返し点。袋井を後に見付宿へと向かいます。