東海道の旅もようやく半分まで。後半戦スタート!
2003年4月28日
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木原畷の戦い
1572年(元亀3)、武田信玄 は大軍を率いて甲斐国を出発し、遠江国に入ると天方城・飯田城・各和城を次々に攻め落としました。 信玄は鷲巣の久野城を攻めた後、東海道 を西進してここ木原付近に布陣しました。これに対峙する徳川家康の家臣、内藤信成 は磐田の三箇野台から偵察の兵を出したので、木原の集落付近で戦闘となりました。この戦いが「木原畷の戦い」です。その後、徳川勢は三箇野川、見附宿、一言坂と信玄から追撃を受けましたが、しんがりをつとめた本多忠勝の奮戦があって浜松城へ撤退できたと伝えられています。木戸風モニュメント
小さな宿場では川が木戸の役目をしていた宿場もありましたが、ここ見付では大きな木戸が設置されていたのでしょう。御朱印屋敷 冷酒清兵衛邸
徳川家康が、武田方の武士に追われ、命からがら見付宿まで逃げて来ました。清兵衛は、家康を守らなければと、見付宿に火を放ち、敵が街の中に入れないようにしました。武田方は三本松(富士見町)まで追ってきましたが、既に見付宿は火の海になって通れません。この間に、家康は、清兵衛の案内で、橋羽(浜松市中野町)の妙音寺まで逃げ、その夜は一泊し、無事、浜松城へ帰ることができました。清兵衛は家康から、手柄として一本の名刀をもらいました。それから家康は、見付を通るたびに清兵衛のところに立ち寄り、清兵衛から勧められた冷酒を、飲み干していきました。そのうちに家康は、清兵衛を「冷酒、冷酒」と呼ぶようになっていきました。これによって遠江の国中の者たちも、彼を「冷酒清兵衛」と呼ぶようになったようです。その後、家康の御朱印酒屋となり、当主は代々冷酒清兵衛を名乗りました。そのお屋敷は現在も立派な日本家屋です。浮田幸吉
見付宿でもう一人の著名人、鳥人・浮田幸吉は岡山で生まれ奉公先で表具の技術を習得します。鳥に興味を持ち、表具師の技術を応用し、竹を骨組みに布と紙で翼を作り、1758年(天明5)岡山の旭川で滑空しましたが、すぐに落下してしまいました。この一件で奇人扱いされ、岡山を所払いされてしまいます。駿府へ移り木綿を扱う店を開き、歯科技師「備考斎」として技術力の高い擬歯を制作することでも評判でしたが、阿部川で再び飛行を試み、またしても所払いとなります。この時は紐でつないで家族に引っ張ってもらう方法、凧のようなあるいは、パラグライダーのような形を取ったようでかなりの距離が飛べたそうです。そして最後に落ち着いたのが見付です。見付けでは飯屋を営みます。1847年(弘化4)90才で亡くなります。見付の大見寺にお墓があります。境内には実部の1/2で幸吉が作成した翼が復元してあります。本坂越え入口
東海道が磐田駅方面に曲がる交差点を直進する道を本坂越え、姫街道、池田近道などと呼ばれていました。天竜川の池田渡しで東海道と合流することから「池田近道」と呼ばれていました。また、この道が浜名湖を迂回する本坂街道(姫街道)に通じることからいつの頃からか姫街道と呼ばれるようになりました。中泉御殿
今川氏に変わり、徳川家康が治めるようになった1569年(永禄12)家康は見付(現在の城山中)に城之崎城を作ろうとしましたが、立地に問題がありました。駿河から武田氏に攻め込まれれば、天竜川によって「背水の城」となり退路が絶たれると織田信長に助言をうけ、浜松に築城しました。井戸から水が出なくて断念したとも言われています。見付には鷹狩用の御殿、中泉御殿を建築しました。現在の磐田駅南口付近です。東海道が不自然に南下し磐田駅のほうへ向かっていきますが、これは中泉御殿があったから、とされています。