桑名の渡口は、伊勢湾台風により景観が一変するも蟠龍櫓は復元

2017年05月20日

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前回、宮まででした。今回、七里の渡しを渡ったとして前日夜から桑名入り。桑名駅前のビジネスホテルに宿泊しました。

9:00 ホテル出発 まず目指すのは、七里の渡しの桑名側です。

レンガ堀

レンガ造りの運河

諸戸清六邸 大門

諸戸清六は、1846年桑名の諸戸家長男として生まれる。父が商売に失敗し一家は各地を転々・・やがてこの地に落ち着き、船宿を始める。清六は18歳で 家督を受け継ぐが、受け継いだものは家財道具と船一艘と莫大な借金。彼は桑名の利点を活かし、米の買い付けを始め、昼夜問わず猛烈に働き 2年で借金を返済。財を成しても質素な生活を貫いたという。一方、公共事業に金を惜しまず、水道施設(諸戸水道)を独力で設置し、一般へ開放。 また、桑名町30か所に大都市以外では希な消火栓を設置するなど、地域へ大変貢献した人物である。

レンガづくりの倉庫

元々は5棟あったそうですが、戦争で2棟が破壊されたそうです。戦争は様々なものを破壊しました・・・

水防倉庫

そういえば・・岡崎くらいから水防倉庫をよく見かけました。伊勢湾台風など台風の被害が多い地域だからでしょうか・・

桑名七里の渡し公園

諸戸邸の一部が公園になっています。

諸戸邸のレンガ塀

結構痛んできていますね・・

諸戸水道 共用栓

清六が設置した諸戸水道は明治37年に完成し、街路の辻など市内55か所に共用栓が設けられ、人々が集まり水を汲んだそうです。

六華苑

六華苑もまた諸戸家の邸宅の一部であった。鹿鳴館の設計で有名なイギリス人建築家ジョサイア・コンドル設計の洋館が建築されています。 入場料を支払えば見学できるのですが、先を急ぎスルーします。

大通りを渡ると揖保川と長良川の合流点、その向こうが木曽川。間の中州に長島スパーランドやなばなの里があります。

住吉神社

今日はちょうどお祭りか何かがあるのでしょうか・・・にぎやかでした。

蔵前祭車

神事に使用されます。平成24年に漆の塗り替えが行われ、真新しく美しく、また厳かでした。

七里の渡し 鳥居と常夜灯

ちょうど伊勢国の東の入口にあたるため、伊勢神宮の「一の鳥居」が1780年頃建てられ、本陣・脇本陣・人馬問屋・船会所などが建ち並び、桑名宿の中心地として賑わいました。

蟠龍櫓(ばんりゅうやぐら)

伊勢湾台風後、堤防が築かれ昔とは風景が一変したそうです。広重の浮世絵にも描かれている蟠龍櫓は、堤防を築き、水門管理事務所を建設 する際、外観を蟠龍櫓としたそうです。NICEなアイデアでしたね。雰囲気は味わえますね。

桑名渡口

現在の蟠龍櫓は、水門管理事務所ですが、2Fは自由に入れるようになっていて、ちょっとした資料館と展望室になっています。高くないので、展望はいまひとつですが・・

治水史の説明板

蟠龍櫓の前には治水工事の説明板がいくつかあります。この地が昔から洪水や氾濫に悩まされ、治水が重要だったとこがよくわかりますね。
九華公園を抜けて『桑名城跡』

本田忠勝像

徳川四天王、徳川三傑などと言われる本田忠勝。桑名城は戦国時代までは、城主がコロコロ変わっています。関ヶ原の戦い後、本田忠勝が城主となります。

本丸跡

現在は石碑があるだけの広場です。本田忠勝が城主となってからは、揖保川沿いに城郭を建造、先ほど見た蟠龍櫓を含む51の櫓、天守、船着場などを次々と築造し、また城下町、東海道などの整備にも力を注ぎます。その後、松平が入城しますが、松平定重の時代(1701年)に桑名市街の半分を焼き尽くす大火に見舞われ天守も焼け落ちてしまいました。その後は再建されずに現在のような広場となっています。

「三条大橋」と刻まれた橋

なぜ京都の三条大橋?あとでわかったが、城跡と九華公園を通ったために、この部分の旧東海道を通っていない・・・ この部分は「歴史を語る公園」として整備されており、江戸の日本橋から京都三条大橋までをモチーフとして創られていたようです。

石取会館

1925年(大正14年)四日市銀行桑名支店として建築されました。内部は改修され、当時の面影はないそうですが、外観は当時のままだといいます。文化庁の「登録有形文化財」に指定されており、石取祭を紹介する施設となっています。先ほど住吉神社で「石取祭車」を見られたのでよかったです。祭車は石取会館で見ることもできますが、市内には40もの祭車があるそうです。

石取祭りは、町屋川の河原の石を清めるために春日神社へ奉納する祭りで、江戸時代に始まったものでです。鉦(しょう)や太鼓の音がけたたましく、日本一やかましい祭りだと言われています。2016年、ユネスコの無形文化遺産として登録され、ますます賑やかになることでしょう。

桑名市博物館

よつや通り

商店街?ちょっと寂しい感じですが・・・道幅は当時のままでしょうね。綺麗に整備されています。

石取祭車蔵

石取祭で使われる山車が保管されている倉庫ですね。

かじやさん

このあたり、町名も「鍛治町」。昔は鍛冶屋さんが集まっていたのでしょうか・・

よつや通りには、仏壇店が多いですね・・・

「いもや本店」さん

  支店もあるのかな・・ww懐かしい匂いのお店。桑名は石の道標が設置されていて、旧東海道が判りやすいですね。

ごちゃごちゃ感がイイですね。小学生の頃よく行っていた駄菓子屋さんのよう

泡洲崎八幡社

江戸時代以前、桑名は三洲に分かれていたそうです。その1つが「泡洲崎の鎮守」でした。

1804年(文化元年)久波奈名所図会

昔は「桑名」を「久波奈」と書いていたようですね・・絵図には「八幡社」のほかに「光明寺」「高徳寺」が書かれています。現在も同じ位置にあります。

広瀬鉢物工場跡

案内板の内容によると『江戸時代の初め、城の建設などのために本田忠勝が鋳物師の広瀬氏を招いてここに工場を与えた。そのためこのあたりを鍋屋町と 称するようになった。この工場では半鐘や日用品なども造り、鋳物製品は桑名の特産物になった。東海道に面しており、1826年にはシーボルトも見学している。現在は個人の住宅となっている。』

桑名鋳物の歴史は古く、戦国時代には確立されていたとされます。武田信玄が天照大神に戦勝祈願を行った際、桑名の鋳物師に製造させた陣鐘(軍勢の進退や陣中の種々の合図のために鳴らした鐘や銅鑼(ドラ))を奉納したという逸話があるそうです。

石取祭の春日神社には高さ7m、巾約6mの青銅鋳物の鳥居が鎮座しその大きさに旅人が度肝を抜かれたという。

桑名駅前のマンホール蓋は色とりどりでデザインもたくさんありました。マンホールの蓋も鋳物ですね。

天武天皇社

672年、壬申の乱の祭大海人皇子(後の天武天皇)が桑名に駐泊されたことにちなみ、建立された神社。古くは新屋敷にあったとされますが、1635年、新屋敷を武家屋敷としたため鍋屋町南側へ移転。さらに後に鍋屋町の北側である現在地に移ります。天武天皇を祭祀する全国唯一の神社だそうです。

一目連神社

「一目連」・・妖怪でしょうか・・??いわれは全く不明です。

矢田立場

立場とは宿場町と宿場町の中間にあって、茶店などが集まり旅人が休憩を取れる場所です。火見櫓は1991年(平成3)に復元されたものです。

江場杉原跡

七里の渡しから大福までの東海道は両側とも家が建ち並んでいましが、江場から安永にかけては両側とも松並木になっていました。眺望が良く、西には鈴鹿山脈、左は伊勢の海が見られたそうです。伊勢湾台風までは松並木も残っていましたが、現在は家が建ち並び1本の松も残っていないようです。

伊勢両宮常夜灯

このあたりは員弁川(町屋川)の船運や旅人のための茶店で賑わっていたそうです。石碑が崩れそうですが、鉄枠でガードされています。

安永第一公園

江戸時代には町屋川を渡る橋が架かっていた場所です。

町屋橋の絵図

町屋橋は1635年(寛永12年)に架橋、川の中州を利用して柱が建てられました。中央部は馬を待避させるために広く造ってありますね。

橋がかかっていたと思われる場所から対岸を望みます。江戸時代、あったものがなく、無かったものが見える・・・

11:30 公園でしばし休憩

この立場で街道名物となっていのが「安永餅(やすながもち)」餅に粒あんを入れて薄く平らにのばして焼いてあります。 現在も桑名の銘菓として売られているようですね。

現在の町屋橋

橋のたもとは小広場となっていて町屋橋の歴史などを紹介するコーナーになっています。

1963年に改修されたときの親柱が残されています。

近鉄名古屋線 朝日駅

縄生の一里塚跡があるはずなのですが・・・見つかりません・・

語らいの広場

この広場にはいろいろなサインや説明板があるのですが・・・どれも字がとーっても小さいです。どうして?大きくしてください。

エノキの大木

根鉢が小さくてかわいそう・・この案内板の字もものすごーく小さい!! 樹齢は300年ほど。東海道の並木として植えられたものだそうです。ほとんどは松だったらそうですが、こういった雑木も混じっていたそうです。

松は太平洋戦争時に松根油(しょうこんゆ)を取るために痛めつけられて、その後は松食い虫などの被害もあって全滅したそうです。

松根油とは松の根(切株)を熱分解して得られる油です。太平洋戦争中、飛行機の燃料として利用したが非常に労力が掛かり実用化には至らなかった。松やには樹液なので全く異なるものです。松根油の精製は特に四日市と徳山で行われたというから、このあたりの松も大量に伐採されたのでしょう・・

浄泉坊

徳川ゆかりの奥方の菩提樹となっています。

西光寺

1496年開基

常夜灯

後ろに見えるのは伊勢湾岸道路

住宅地を抜けると水田が広がってきました。

朝明川を渡ると四日市宿に入っていきます。

朝明橋を渡るとポケットパークになっています。この場所は江戸後期から明治初期にかけて「橋南のつる」という茶店があったそうです。 このあたりの町名は「茶屋の前」といいます。

安藤広重 『四日市』

描かれている橋が「朝明橋」

力石

茶店にあったといわれます。力石って色々なところに見かけますね。昔は力持ちってことが男のステータスだったのでしょうか・・

鏡ケ池

聖武天皇とこの村の娘とが池に映り、鏡のようだった・・という話が由来のようですが、現在池は無いですね。残念です。

古地図には確かにありますね。

しかし・・このあたりは細い道なのに車通りが多いです。

高架を関西本線?路面に三岐鉄道?が通っていて、住宅地は徐々に工場やマンションなどに町並みが変化してきました。四日市中心地に近づいています。

一里塚橋

一里塚橋の水路

小さな魚がいっぱいいます。こんな町中の水路にも魚がいるんですね〜

富田の一里塚跡

現在は石碑があるだけです。

八幡神社

ここにも力石がありました。ここの力石の説明板には「豊作の願いもあった」と書かれていて、信仰の対象でもあったらしいです。力自慢だけじゃなかったのですね。

行啓記念道路

西町公会所ヨコの路地に石碑があります。大正天皇が皇太子時代にこの富田にこられた時のことを記念して建てられたものです。

ここでちょっとトイレ休憩のため、東海道を外れます。

富田中公園

この公園は、富田城主南部家ゆかりの寺「冨松山連光寺」(ふしようざんれんこうじ)跡です。現在寺は移転されて、公園になっています。

トイレは新しくて綺麗です。

13:30 休憩 のろのろですね・・

「中町通り」商店街を通過。閉まっているお店が多い

明治天皇御駐輦(ごちゅうれん)跡

富田小学校、校門脇にあります。この地の広瀬五郎兵衛宅に4度休憩に訪れたそうです。この時代、京都から東京へ遷都が行われようとした時期で、明治天皇も京都と東京を行ったり来たり・・

富田の常夜灯

常照寺

力石と新設用水道碑

この力石、なんと120kg!持てた人いたのでしょうか〜

新設用水道碑

1904年(明治37年)に用水路を新設し、昭和初期まで各家庭にや田畑に水を供給していたそうですが、国道1号工事、伊勢湾台風、水源地の十四川の水質悪化などにより水路は消滅したそうです。

常夜灯

かわらずの松

注連縄(しめなわ)が巻かれています。樹齢200年ほど。昔はこのあたりには多くの松があったそうですが、松食い虫によって壊滅。現在はこの場所ともう1本、日永地区にあるそうです。

志氏神社

光明寺・八十宮御遺蹟

八十宮(やそのみや)とは、皇女八十宮吉子内親王のことです。1715年、八十宮2歳の時に徳川七代将軍家継(当時7歳)と婚約しましが、翌年に家継が死去したため、八十宮は仏門に入られて家継の菩提を弔いました。光明寺の妹つねが宮付きの青蓮院御曹司として召されました。(お部屋の付き人みたいな・・御曹司とは現代の意味とちょっと違ってそこに住む人を指している)宮は、1758年に亡くなられ、その際に位牌と遺物3品がつねに賜れ、光明寺に奉安されていましたが、1945年(昭和20)の四日市空襲の際に焼失してしまったそうです。

なが餅 笹井屋

旧道が途切れ、一旦国道1号へ

多度神社

ここから再び旧道へ。海蔵川の土手が緑地になっている

三ツ谷の一里塚跡

元々の一里塚は、昭和20年代の海蔵川拡幅工事によって川の中・・だそうです

15:00 この緑地で休憩

浜一色町、商店街の一角に土鍋君?本名はわかりませんが・・カワイイ

三滝橋

三滝川に架かる『三滝橋』。江戸時代は土橋、明治10年に板橋にかわり、大正10年に鉄構橋となりました。とっても立派な橋です。

三滝川

長もちの「笹井屋本店」

桑名にも安永餅という同じような餅がありました。牛の舌のような長く薄い餡入り餅は三重県内の東海道、伊勢街道へ広く分布していて、現存している店では1550年創業のこの「笹井屋」が最も古いと言われているそうです。

四日市宿本陣

本陣はこの黒川農薬商会のあたりといわれていますが、特に案内などはありません。

道標

1810年(文化7年)建立。「すぐ江戸みち」と彫られている大きな道標です。

石の道標のところを右へ、国道1号へでます。現在、道が無くなっている部分がります。

表参道スワマエ

旧東海道はアーケード街となっています。四日市駅に近づくにつれ商店が多くなり、賑やかになってきました。

諏訪神社

表参道スワマエ

なんだこれ?

あすなろう鉄道

アーケードを抜けてしばらくすると「あすなろう鉄道」と沿う道になります。「あすなろう鉄道」は、四日市駅から四日市市の南部、小古曽町「内部駅」までの 7kmを走るローカル線です。巾762mmと線路幅が狭いナロゲージを採用していて、日本では珍しく、ナロゲージで運行している鉄道は他に「三岐鉄道北西線」のみだそうです。ちなみに時速120kmでかっとばす京浜急行の線路幅は新幹線と同じ1435mm。なんと京浜急行の半分しか無いですね。

ちょうどいい具合に電車が来てくれるといいのだけど・・ こないですね・・・乗れないけど・・いつか乗ってみたいですね。

大宮神明社

日永の一里塚

住宅と住宅の間に挟まっています・・窮屈そうですが・・・油断していると見過ごしますよ〜
16:40 本日のゴール。ここからホテルまでもう少し歩きます。なんとか、かんとか予定通りでした。 結局、今日もお昼ご飯は食べませんでしたね。不思議とお腹すきません・・

ここから今日泊まるホテル『ルートイン南四日市』へ向かいます。