2018年04月29日
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11:00 坂下宿をでて、
鈴鹿峠を目指して進みます!
岩屋十一面観世音菩薩
1658年〜1660年(万治年間)に実参和尚により道中の安全祈願のため、阿弥陀如来、十一面観音、延命地蔵の三体の石仏が安置されました。
門が閉まっていましたが、ノブをひねると開いていたので入ってみました。
沢から水を引いた手水鉢
清滝
「清滝観音」とも言われ、葛飾北斎の「諸国滝めぐり」にも描かれています。
葛飾北斎 清滝
この浮世絵が描かれた当時から水量は多くはなかったようですね。細い水がいくつか流れ落ちています。岩窟には柵があり、旅人がひざまづいて拝んでいるように見えますね。
お堂
高さ18mの巨石に穿たれた岩窟にお堂がありました。ここは入れませんでした。
元坂下一里塚跡
岩屋十一面観世音菩薩の西側にあったらしいのですが・・案内板や石碑はなく、はっきりとはわかりません。恐らくこのあたりかと思います。
山道に入っていきます。道も細くなります。
山道になってきました。ワクワクしますね
地形が少し平らになりましたが、このあたりはが「古町」と呼ばれていた元の坂下宿のあたりでしょうか。
片山神社
元々は東に1.5kmほどの三子山(みつごやま)に祭祀されていたが、火災により1294年(永仁2年)に現在の場所に移されました。旧東海道はこのあたりから「鈴鹿坂八丁二十七曲り」の急坂が始まり、「東の箱根峠、西の鈴鹿峠」と言われた街道の難所、鈴鹿峠へと続きます。
鈴鹿流薙刀術発生の地
仙台藩に伝わる「静流薙刀術」が訛って「しずりゅう」→「すずか」となり、そこに「鈴鹿」の文字を当てたとされるようです。・・・ということは??ここが発生の地ではないのでは・・
曲がりくねった急坂
旧道上部に国道1号が架かっています。旧道は、コンクリートの階段になってしまいました。
芭蕉句碑
「ほっしんの 初にこゆる 鈴鹿山」
何かしようと(発心)心に決めたとき、初めに越えなければならない山がある・・・というような意味合いのようです。
馬の水のみ鉢
江戸時代から人馬のために水溜めがおかれていたそうです。湧水が湧き出ています。後ろの石積みは古そうですね。現在はコンクリート製ですが、当時は木製だったのでしょうか。
鈴鹿峠は樹木が覆っている場所が多く、景色のいいところは少ない峠です。ここは、たまたま樹木がなく、眺望が望めました。景色がいいです。
田村神社旧跡
平安初期の武人、坂上田村麻呂は鈴鹿山の悪鬼を平定したという。田村麻呂は残った矢を放ち、「矢が落ちたところに自分を祀れ」と残したそうです。その矢がここに落ちたのでしょうね。石碑には1907年(明治40年)、片山神社に合祀されたと彫られています。
鈴鹿山の鏡石
頂上にある巨岩の一部が鏡肌(スリッケンサンド)と呼ばれる光沢を帯びています。断層が生じる際の摩擦力によって研磨され、鏡のような光沢を帯びるそうです。山賊がこの岩を磨き、映った旅人襲ったという伝説から「鬼の姿見」とも言われます。
鈴鹿峠
標高378m、初めての宮道は、「阿須波道」と呼ばれ、平安時代の886年(仁和2)に開通しました。今昔物語等においての鈴鹿峠は山賊に関する伝承が多く残るそうです。
鈴鹿峠への道は急坂もありましたが、短くかなり楽でした。
領界石
これより伊勢国をでて、近江国へ入ります。江戸時代の旅人も「いよいよ近江だな〜」なんて思ったんでしょうね。
峠へでるとすぐに開けた素晴らしい景色が望めます。
広がるのはお茶畑です。「歴史の道100選」のレリーフもありました。
気持ちのいい道をしばらく進みます。
気持ちのいい休憩所があります。トイレも完備。
12:30 しばし休憩します。
万人講灯籠常夜灯
江戸時代に金比羅参りの講中(信者の集り)が道中の安全を祈願して建立しました。元々は東海道沿いに建っていましたが、鈴鹿トンネル工事のため、移設されました。
しばらく国道を歩きます。
旧道へ入るとすぐに立派で綺麗なトイレとポケットパーク
鈴鹿馬子唄の碑
「坂は照る照る 鈴鹿は曇る あいの土山 雨が降る」
この馬子唄の「あいの土山」の解釈がさまざまあるらしいのです。
1.坂下は晴れ、鈴鹿は曇り、相対する土山は雨。鈴鹿峠を境に伊勢側と近江側では天候が違う。あいは「相」とする説。
2.土山宿が本宿に設定される以前は間の宿であったことから坂下宿は栄え、土山宿は寂れている、と考える説。
3.当時、土山では藍染が盛んであったから。
・・・などなど「あいの土山」について他にも諸説あります。
新名神高速道路(第二名神)
すごく高いところを走っていますね。
「第二名神」滋賀県起工の地
三重県四日市市から滋賀県、京都府、大阪府を経由し兵庫県神戸市北区へ至る高速道路です。2008年に開通しました。
山中地区圃場整備竣工記念碑
圃場とは、耕地のことで、今歩いてきたあたりの田園は綺麗に区画整理されていました。
山中一里塚跡
塚はなくなってしまいましたが、「山中一里塚公園」となっています。
擽野観音道(大原道)道標
「いらのかんのんどう」と読むそうで、生活道として使われていた道路です。当時は、東海道沿いにありましたが、道路改良のため、現在地に移設されています。
鈴鹿馬子唄之碑
鈴鹿峠は、特に伊勢側からの登りが急峻なため、人や荷物を運搬する馬子が重宝されました。鈴鹿馬子唄はそんな馬子達の労働歌として生まれ、人形浄瑠璃などの演目にて、広く知られるようになりました。同じように馬子が重宝された箱根にも箱根馬子唄がありましたね。
猪鼻村
現在は緩やかな坂ですが、当時は険しい猪鼻峠があったため、猪鼻村には立場としての役目があったそうです。草餅や強飯(こわめし)が名物でした。強飯とはおこわ、特に小豆ともち米の強飯、赤飯のようなものを指しているようです。
浄福寺
788年(延暦7)天台宗開祖、最澄上人が比叡山延暦寺根本中堂を建てるための用材を探し、甲賀の杣谷に来られました。その時紫雲たなびき金色に光る山があり、霊地として浄福寺が開かれました。その地を掘って得た用材で本尊を彫ったとの伝承があります。本尊は 十一面千手観音坐像ですが、33年に一度の御開帳です。
子葉 句碑
『いの花や 早稲のもまるる 山城し』
赤穂浪士の一人で俳人の大高源吾の句です。
旅籠 中屋跡、明治天皇聖蹟跡
明治天皇が旅籠中屋で休憩されたそうです。
坂を上ると国道へ戻ります。。猪鼻村ともお別れです。
榎島神社の御神木
御神木のシイノキは、樹齢400年といわれています。
蟹ケ坂
鈴鹿峠に一丈(3m)の巨大な蟹が現れ、人々に危害を与えていました。恵心僧都源信が巨大蟹に説教をすると蟹は涙を流し、悪行を悔い、自身の甲羅を八つに裂き、消えたといいます。僧は甲羅を集めて塚を作ると蟹の血が固まり、飴のようなものになりました。飴は「かにがさき飴」として、現在は土山の田村神社前のお店で昔ながらの手作りで作られているそうです。
東海道を少し外れて歩くとその「蟹塚」がありましたが・・すっかり忘れて通り過ぎてしまいました。
蟹坂古戦場跡
大きな石碑には「蟹坂地区圃場整備竣工記念碑」。1542年(天文11年)伊勢国司北畠氏は甲賀へ侵入しようと山中城を攻めました。当時の城主は山中丹後守秀国。秀国側が勝利し、北畠氏の甲賀への侵入を阻止しました。
海道橋(田村永代板橋)
1775年架橋の田村永代橋を模して復元したものです。1775年までは橋がなく、今は失われた東海道から徒歩で田村川を渡りましたが、大水がでるたびに溺れ死ぬ人がでて、旅人を困らせていました。
橋番所、高札場
橋の東側には橋番所、高札がかかっていました。この高札は田村橋を渡る人のために設けられており、『幕府の使いの者、この先に田畑のある者は無料であるが、その他の者は馬も人も一人につき三文の渡賃を取る』と書いてあったそうです。
井上朗 句碑
「鮎の背に 朝日さすなり 田村川」
1775年の架橋の際に東海道の路線が変更され、田村神社参道を通るようになったそうです。
田村川
歌川広重 「春の雨」
田村永代橋と田村川、雨の中で橋を渡る大名行列が描かれています。
高札場跡
田村神社
812年(弘仁3年)創建。坂上田村麻呂を主祭神に倭姫命(やまとひめのみこと)、嵯峨天皇を祀っています。田村麻呂没後、嵯峨天皇勅命により田村神社が創建されました。
道の駅あいの土山
15:15 道の駅の前にようやくバス停がありました。
鈴鹿越え後の東海道ルートは、鉄道やバスなどの公共交通機関が非常に少ないのです。ホテルは水口のあたりにいくつかありますので、水口まで行きたいのですが、今日中に歩いて水口まで行けそうもありません。バスに乗ろうかとバス停を確認しました。
非常に路線図がわかりにくいです・・どれに乗ればいいのか・・わかりません。しかも本数も少ないです。悩みましたが、次のバスまで1時間ほどありますし・・とりあえず、もう少し歩くことにします。
かにが坂飴
かにが坂飴の製造を唯一しているお店だそうです。飴は買いませんでしたが、小腹が空いたのでたこやきをいただきました。
土山宿の中心地に入ってきました。町並みが古くて素敵です。
土山宿でも「屋号」が掲げられています。
上島鬼貫 句碑
「吹けばふけ 櫛を買いたり 秋の風」
伊勢出身の俳人で東の芭蕉、西の鬼貫といわれているそうです。東海道の旅の途中、土山に寄り、お六櫛を買い鈴鹿峠へ向かう時に詠んだ句です。
「お六櫛の由来」
中山道妻籠宿の旅籠の娘
「お六」は持病の頭痛を治したい一心で御嶽山に願をかけ、お告げにしたがって「
ミネバリの木」で作った櫛で髪をすいてみたところ、頭痛が治ったといいます。お六はこのミネバリで作った櫛を売り出したところ、旅人の間で評判となり全国的に知られるようになったのです。
たんぼが輝いています。
伝承文化館(旧扇屋)
扇屋は、江戸時代に扇や櫛を販売していた商家でした。館内では、扇屋に残されていた「お宝」や地元工芸品の展示、また土山宿特産品の販売が行われています。
旅籠 大槌屋跡
土山一里塚跡
塚はなくなり、石碑が建つのみです。
旅籠 寿し屋跡
来見川に架かる来見橋
来見橋に描かれている土山宿
細かい表情などを見ると、なかなか面白いですね。
白川神社
創建は不詳ですが、1665年には既に存在していたようです。この年に焼失し、この地に移されました。「近江土山祇園祭花傘神事」で有名です。
旅籠 木屋跡
旅籠 山本屋跡
旅籠 簾屋跡
旅籠 江戸屋跡
左から柏屋跡、大工屋跡、釣瓶屋跡
文豪森鴎外の祖父、森白仙終焉の地 井筒屋跡
森家は代々津和野藩主亀井家の典医でした。白仙も医師でありました。1960年(万延元年)、藩主の参勤交代に同行し、江戸へ出向します。藩主は翌年帰国しますが、白仙は病のため江戸で養生後、帰国の途に着きますが、長旅の途中のこの井筒屋にて急死してしまいました。近くの河原の墓地に埋葬されたそうです。明治33年、鴎外がこの地を訪れ、荒れ果てた墓を見かねて常明寺に改葬を依頼します。昭和28年に鴎外の眠る津和野永明寺に移葬されています。
旅籠 木綿屋跡
旅籠 平野屋跡
明治33年、白仙の墓参りのため土山を訪れた鴎外が宿泊した旅籠です。
左から 旅籠 はた屋跡、旅籠 万屋跡
カフェ うかい屋
素敵な店構えですね。入りたいですが、日没まであまり時間がありません。
堤家(二階家)脇本陣跡
土山家本陣が収容しきれなくなったため、1680年(延宝8年)に本陣となりました。土山家本陣よりも小規模でした。堤家は幕末に衰退し、その後は大旅籠の大黒屋が代替として利用されました。
土山家本陣
1634年(寛永11年)、家光が京都に向かう際に設けられた本陣です。当時使用された道具や宿帳など貴重なものが現在も保存されています。明治元年、明治天皇行幸(ぎょうこう・天皇の外出のこと)の祭には、この本陣で16歳の誕生日を迎えられました。「明治天皇聖蹟」の石碑も建っています。
問屋場跡 成道学校跡
土山宿の問屋場は時代とともに場所が移り変わったようです。明治時代、宿駅制度の廃止によってこの地は「成道学校」として利用されました。明治5年の学制発布により、明治6年に土山に創設された3校のうちの一つのようです。成道学校は、現在の「土山小学校」のようですね。
東海道 伝馬館
江戸後期に造られた土山の民家を改装し、平成13年に開館しました。様々な街道に関わる展示がされていたり、お茶染めの体験や旅姿の衣装で写真撮影などもきるようです。
問屋宅跡
問屋とは、宿駅業務を行う宿役人を取り締まった責任者のことを指しているようで、この場所は問屋場ではなく、その責任者の自宅ということでしょうか。
旅籠 俵屋跡
井上博士の漢詩
『鈴鹿山の西に 古よりの駅停あり。秋風の一夜、風輿停る。
維新の正に是、天長節なり。恩賜の酒肴を今尚馨る。』
大正3年、土山本陣跡にて明治天皇行幸の際、土山宿にて誕生日の祝賀式について話をすると、井上は非常に感激してこの漢詩を書いたそうです。天長節とは、天皇の誕生日を祝った祝日のことです。
高桑闌更 句碑
『土山や 唄にもうたふ はつしぐれ』
金沢生まれの江戸中期の俳人。芭風の復興に努めました。芭風とは、松尾芭蕉が確立した俳句の手法や考え方、俳風のことです。芭蕉を偲び、各地に芭蕉句碑を建立します。
1786年(天明6年)、京都東山に芭蕉堂も建立しました。
「初時雨」は、晩秋に降るその年初めての時雨ということですが、芭蕉も伊賀越えの際に『初時雨 猿も小蓑を欲しげなり』と詠んでいます。
唄とは「馬子唄」の「土山は雨」のことで、土山は馬子唄の通りだな、というような句でしょうか。
問屋場跡、大黒屋本陣跡
幕末に堤家本陣が衰退したため、大旅籠の大黒屋が代替の本陣となりました。
高札場跡
土山宿陣陣屋跡
陣屋とは勘定奉行の配下である代官が在住した屋敷を指します。1683年(天和3年)に築造され、1800年(寛政12年)、土山宿の大火災で焼失してしまいました。以後は再建されずに陣屋は信楽に移ったそうです。
吉川に架かる大黒橋
地図上では田村川となっています・・支流です。
ここからすぐに大通りにでて、土山宿は終わりですね。すぐに「土山西」というバス停があります。
16:40 ちょっと待てばバスはありそうです。
本日泊まるホテルは水口の「ルートイン甲賀水口」ですが、そちらの方面へ行くのかわかりません。これから行かれる方は、「あいくるバス」の路線図も貼っておきますので、参考にしてください。
迷いましたが、結局は土山タクシーさんへ迎車をお願いしました。5分くらいで来て下さいました。水口の「ルートイン甲賀水口」まで5000円くらい掛かってしまいました。痛い出費ですが、このあたりは交通機関がないので仕方ないです。もう少しでも水口側へ進めれば出費も押さえられますが、あまり無理しないようにしましょう。