2018年09月16日
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今日初めに行くところは
「霊山歴史館」。少し距離があるためホテルにタクシーを呼んでいただきました。
10:30頃 霊山護国神社鳥居前に到着しました。
幕末維新ミュージアム「霊山歴史館」
坂本龍馬、中岡慎太郎、西郷隆盛、木戸孝允、高杉晋作など倒幕派志士の遺品や資料をはじめ新選組、徳川慶喜、松平容保など幕府側の資料も併せて展示されています。
立派な建物でしたが、規模は小さいです。特に今はNHK大河ドラマ「西郷どん」の影響で、西郷隆盛に関連するものが多いです。写真を嫌ったという西郷さんの「真の姿」といわれる姿絵のに驚きました。
護国神社
幕末維新に殉じた志士と大東亜戦争によって没した京都府出身者の霊を祀っています。明治元年に整備、管祭招魂社として始まっています。
お天気が徐々に悪くなり、雲で覆われてきました。
霊山の案内図
お墓は約300基あるそうです。山の斜面に整然と並んでいます。
木戸公神道碑
「神道碑」というものは、国家に功績のあった人物の墓所参道に建てられる碑だそうで、明治天皇の命により建立されたそうです。
多くの墓碑が斜面に沿って整然と並んでいます。
桂小五郎(木戸孝允)の墓所、隣に幾松の墓所
霊山墓所の一番上のほうに、最も立派に作られています。
桂小五郎
桂小五郎は、容姿端麗、神道無念流の達人とさますが、吉田松陰門下生の中でも人を斬ったことのないと言われる理性の人だといいます。明治維新に貢献し、維新政府においては参議などを務め、版籍奉還・廃藩置県を実現し、岩倉使節団へも同行しています。幾松は芸妓であり、身分を超えての婚姻はなかなか大変だったろうと思います。
木戸は、1877年(明治10)、病死。45歳。幾松は1886年(明治19)、病死。44歳。
高杉晋作之墓
長州藩、尊王攘夷の志士として活躍し、騎兵隊を作った人です。大政奉還を知ることもなく、29歳で肺結核で亡くなります。
辞世の句 『面白きこともなき 世を面白く すみなすものは 心なりけり』
面白くない世の中なら自分の心持ちで面白くしちゃえ〜みたいなことですかね。まさにそう思います。何事も自分次第ですね。。
本当のお墓は、下関の東行庵に最愛のおうのと共に眠っています。
坂本龍馬ら墓所
右 中岡慎太郎、左 坂本龍馬、左奥 藤吉(山田藤吉)。藤吉は、元力士、四股名は「雲井龍」、大津の鹿関生まれです。若くして廃業し、後に坂本龍馬の用心棒兼世話役となります。近江屋で竜馬とともに切られ、翌日死亡しました。
京の街を見下ろす龍馬と慎太郎・・
現代日本を見てどう思っているのでしょうか・・かつて夢見た日本の姿が見えていますでしょうか・・
吉村寅太郎墓所
土佐藩士で、土佐勤皇党に加盟。寺田屋事件で捕らえられ、土佐へ送還されて投獄されます。釈放後に京都へ戻り、「天誅組」を組織し挙兵するも「八月十八日の政変」により一変、幕府の攻撃を受けて戦死しました。
パール博士顕彰碑
ラダ・ビノード・パール博士は、カルカッタ大学の総長で世界的な国際法学者でした。「極東国際軍事裁判」、いわゆる東京裁判において、インド代表として着任します。パール博士は、裁判が法に違反するものであり、戦勝国の敗戦国に対する復讐劇にすぎないと主張し、ただ一人被告全員の無罪を判決されました。
あぁ特攻勇士之碑
若い命が簡単に奪われていったのですね。
騎兵隊の慰霊碑
陸軍特別操縦見習士官之碑
維新の道
石碑の文字は、パナソニック(旧東芝)を築いた松下幸之助のものだそうです。
維新の道
1970年(昭和45)、護国神社へ至る道を整備し「維新の道」と名付けられました。
法観寺(八坂の塔)
ここからは、ひたすら歩いて京見物です。
圓徳院(北政所終焉の地)
豊臣秀吉没後、妻である北政所(きたのまんどころ)ねね(おね、高台院)は、高台寺建立を発願し、1605年(慶長10)、秀吉との思い出深い伏見城の化粧御殿と前庭をこの地へ移築し移り住みました。77歳で没するまでの19年間この地で余生を送り、ねねを慕って多くの大名や歌人などが訪れました。
高台寺月真院
御陵衛士屯所跡、谷?卿先生墓所とあります。
御陵衛士屯所跡
1867年(慶応3)孝明天皇の御陵衛士(天皇墓の守護)、伊藤甲子太郎らが屯所とした寺院です。伊藤は常陸出身で学問優秀、北辰一刀流の名手。新選組に入隊し参謀となりますが、近藤・土方と意見が合わず、御陵衛士となります。近江屋事件から3日後、近藤に呼ばれ、酒の接待を受けた帰りに新選組によって暗殺されます。遺体を路上に放置し、引き取りに来た多くの御陵衛士も待ち伏せしていた新選組により斬られ、御陵衛士隊は終焉したそうです。
酒に酔わせて大勢で斬るとは・・新選組って・・
谷?卿先生墓所
まだ日本に鉄道がなかったころ、政府は鉄道を建設しようとします。しかし反対者が多くなかなか事業が進まない中、京都の医師であった谷?卿は、「鉄道建白書」を記し、鉄道の可能性とそれに伴う産業の発展を示します。1872年(明治5)、新橋・横浜間に初めての鉄道が敷設され、鉄道の重要性は国民皆の知るところになります。谷?卿
「鉄道の先覚者」と言われています。
ねねの道
電柱が無いため、すっきりしています。京都はどこへ行っても観光客が多いです。きっと東海道を歩いてきた旅人も京の人の多さにびっくりしていたでしょうね。
大谷御廟
東本願寺の祖、親鸞の墳墓です。
八坂神社
創建については諸説ありますが、876年(貞観18)、円如が寺院を寺院を建立したというものが最も有力だと言われています。「八坂神社」とされたのは1868年(明治元)。
京都三大祭りの「祇園祭」が有名です。
八坂神社 西楼門
応仁の乱で焼失後、1497年(明応6)再建されます。1913年(大正2)、四条通拡張に伴い、現在地へ移転し、同時に袖となる翼廊を建てられました。朱色がとっても鮮やかです。
祇園新橋・日除地蔵
祇園は八坂神社の門前町として平安中期頃より発展してきました。
新橋通り
建物のほとんどは1865年の大火後に建てられたものだそうです。
辰巳大明神
京都御所より辰巳の方向にあることから「辰巳大明神」と言われています。昔、巽橋に住んでいた狸が橋を渡る人を騙し、白川の中を歩かせていたそうです。困った祇園の人々が狸を祀る祠を建てたところ悪戯が収まったということから、御祭神は狸だそうです。
祇園一帯の町並みは「重要伝統的建造物群保存地区」に指定されています。
祇園白川
白川南通
かつてはこの道はなく、「大友」や「大和屋」などお茶屋が立ち並んでいました。特に「大友」は吉井勇、夏目漱石、谷崎潤一郎ら作家や画家が訪れていましたが、戦時中、建物疎開対策のため、白川北側の茶屋は強制撤去されてしまったそうです。そして、今は道になっています…
かにかくに碑
『かにかくに 祇園はこひし 寝るときも 枕のしたを水のながるる 吉井 勇』
当時は茶屋の奥一間が川の上に突き出ており、その情景を詠んでいます。「かにかくに」とは、何かにつけて、という意味です。何かにつけて祇園が恋しい・・
大和橋
江戸幕府によって架けられた橋です。現在の橋は、明治45年に架け替えられたものだそうです。
江戸時代の大和橋
白川の川幅は、現在よりもだいぶ広かったようです。
出雲阿国像
1603年(慶長8)、市場河原で伊達男風の扮装で「かぶきをどり」を披露し、評判となりました。出雲大社の巫女で一座を率いて入洛、北野天満宮の舞台で名声を得、各地を巡業しますが、江戸幕府により秩序を乱すとされ、以降、男が女形を演ずる現在の歌舞伎となります。
なぜ女が男役をすると風紀を乱し、男が女役だと秩序を乱さないのでしょうか。
鴨川納涼床
戦国時代、三条・五条橋の架け替えなどで鴨川の河原は見世物や物売りで賑わい、見物席を作ったり、茶店ができたりしたのが始まりだとされています。今では京都の夏の風物詩ですね。
先斗町(ぽんとちょう)
1712年(正徳2)頃に水茶屋が設けられ、高瀬舟の船頭や旅人の旅籠が建ち、茶立女(給仕と遊女を兼ねた女)を置くようになり、1859年(安政6)正式に祇園と並ぶ花街となります。
茶立女とは、飯盛女と同じ意味でしょうか。色々な言い方がありますね。現在、無電柱化の工事を行っているそうです。確かに頭上の電線、無くなったらいいですね。
それにしても狭い路地ですが、たくさんの観光客でいっぱいです。
お龍独身時代寓居跡碑
坂本龍馬の妻、お龍父の楢崎将作が亡くなり、一家は困窮し、引っ越してきたのがこのあたりの「木屋町」。その後は一家離散して七条新地の旅館「扇岩」に入ります。それまで暮らしていたところがこのあたり、という石碑のようです。
七之舟入跡
奥に入り江があったのでしょうが、現在は埋め立てられています。残っているのは、「一之舟入」のみです。
土佐藩邸跡
1690年(元禄3)に京都へ土佐藩邸が置かれました。武市瑞山・坂本龍馬・中岡慎太郎・後藤象二郎など幕末に活躍した土佐藩の京都における根拠地でありました。
元立誠小学校
日本映画発祥の地
1897年(明治30)、実業家の稲畑勝太郎が当時の京都電燈(株)において、日本で初めて映画の試写実験に成功しました。その後立誠小学校となり、それも閉校し、現在は「元立誠小学校」と呼ばれ、地域のイベント拠点や小さな映画館として、使われていたようです。
ですが、更に現在工事中で「元立誠小学校」は生まれ変わるようです。校舎は1927年完成の京都では最古の鉄筋コンクリート造の校舎とされています。今後、この趣ある校舎の大部分は保存・再生されて新たに地域の複合施設となるべく工事中です。
坂本龍馬・中岡慎太郎遭難之地
坂本龍馬らが刺客に暗殺された近江屋(醤油屋)があった場所です。
錦市場
1615年(元和元)、魚市場として始まります。昭和2年に京都中央卸売市場が出来るとそちらへ移る店が多く、代わりに青果や精肉、食品店などが新たに加わり、現在のように「京の台所」と言われるまでに発展してきました。
とてもパワーのある商店街で、ものすごく混雑しています。身動きできないくらいの場所もありました。
湯葉の素揚げは、お塩だけ。カリカリのスナック感覚で糖質制限中の人にはいいですね!
おすすめは、「京のお肉処 弘」さんのメンチカツ。写真を撮り忘れてしまいました・・それくらい食べるのに夢中でした。あつあつの揚げたてを噛むとじゅわーっと肉汁が口の中に広がります。
美味しいです。しかもたったの160円。
カキやホタテもお手頃価格です。
エビは串に3本刺さっていて500円、塩だけのお味。エビ好きにはたまりません・・
もちつき屋
「宇治抹茶サンデー」 530円
17:00 さて、食べ歩きで夕食も済み、錦市場からホテルへ向かいます。結構遠いため、タクシーで向かいます。
本日は、
「アーバンホテル京都二条プレミアム」へ宿泊します。
そして・・ホテルでのお楽しみは、先ほど錦市場でお持ち帰りした・・
茶和々さんの「抹茶わらび餅」
甘さとお茶の苦みが程よく、プルンとしていて二人でペロッと1箱食べてしまいました。