2003年4月27日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
16:30 日坂宿をあとに大急ぎで掛川宿へ向かいます。
事任八幡宮
「ことのまま八幡宮」と読みます。創建時期は定かではありませんが、社伝では成務天皇の頃とされています。ただしこの成務天皇は実在していたか定かではないようです。807年(大同2)坂上田村麻呂が東征の折、桓武天皇の勅命によって、それまで鎮座していたすぐ北側の本宮山から現在地へ遷座させたと伝えられたと伝えられています。願いが「ことのままにかなう」といわれ、評判になりました。
古くから多くの書物がこの社のことを記しており、平安時代には清少納言の「枕草子」や多くの和歌、鎌倉時代には吾妻鏡、江戸時代には十返舎一九の「東海道中膝栗毛」などに「願い事が叶う神社」として登場しています。
この後、急ぎ足で掛川へ向かいましたが、県道を歩いている時にちょうどタクシーが通りかかりましたので、タクシーで掛川のホテルまで向かいました。
17:30 「葛川一里塚」手前で今日は、中断します。
2003年4月28日
10:00 タクシーで「葛川一里塚」まで戻り、今日はここからスタートします。
葛川一里塚跡
斜向かいの「もちや」看板下の案内板には、「馬喰橋一里塚跡」と書かれています。58里目の一里塚です。塚はありませんが、綺麗に整備されています。
振袖餅 もちや
掛川宿名物「振袖餅」は、大福餅を着物の振袖の細長の形にあしらったのが名前の由来とされています。創業当時は五文で買えた餅として「五文餅」とも呼ばれていたそうです。旧東海道の萬川一里塚の前、馬喰橋のたもとにある「もちや」は当代で七代目、200年続いた和菓子店です。名物の「振袖餅」は、白餅と草餅に黄な粉をまぶしたものの2種類があります。
秋葉常夜燈
七曲りの最初の突き当りにあります。昭和3年に建立されたものです。
新町七曲り
いくつものクランクで敵を容易に侵入させない道の構造は、城下町ではよく見られます。七曲りの終点に城下に入ってくる人物を取り締まるための木戸と番所がありました。
掛川は鎌倉時代から宿駅として整備され、江戸時代には本陣2軒、旅籠30軒と比較的大規模な宿場となっていました。
掛川は城以外の建物、土産屋、銀行、飲食店なども土蔵や武家屋敷を模しており、城下町らしい景観に整えられつつあります。
大手門とその周囲の景観までもが一体的に整備されています。
掛川城大手門
天守閣に続いて1995年(平成7)に復元されたもので、大きさは間口12.7m、奥行 5.4mの二階建です。
掛川城の表玄関にふさわしい楼門造りの本格的な櫓門は、木造日本瓦葺き入母屋づくりになっています。白壁で板ひさしが配され、棟の上にはシャチ瓦が飾られた勇壮な構えです。実際は50メートルほど南にありました。
大手門礎石根固め石
掛川城大手門は、二層式の櫓門(楼門)でした。大きく重量のある門のため、基礎は大きく直径2m、深さ1.5mくらいの大きな穴に40cm前後の川原石を円形に4〜5段積み重ね、その上に門柱の礎石が置かれていました。
大手門番屋跡
大手門の内側にあった番所は、城内に出入りする者の監視や警備をする役人の詰所です。1854年(嘉永7)の大地震で倒壊後、1859年(安政6)に再建されたものが現在の建物です。
掛川城天守閣
室町時代、駿河の守護大名今川氏が遠江進出を狙い、家臣の朝比奈氏に命じて築城させました。戦国時代には、山内一豊が城主として過ごしたのはわずか10年間でしたが、大規模な城郭修築を行い、天守閣、大手門を建設するとともに、城下町の整備や大井川の治水工事などに力を注ぎました。掛川城は、一豊の出世城であり、高知城は掛川城を模して作られたとも伝えられています。現在の掛川城は、1994年(平成6)、日本初の「本格木造天守閣」として復元されたものです。
掛川城二の丸御殿
城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用されました。当初は、本丸にも御殿がつくられましたが老朽化し、災害にもあり二の丸に移りました。現存する御殿は、1854年(嘉永7)大地震で倒壊したため、時の城主太田資功によって、1855年(安政2)から1861年(文久元)にかけて再建されたものです。以降、1855年(明治2)までの14年間は掛川藩で使われましたが、廃城と同時に勤番所と徳川家兵学校に転用され、廃藩置県とともに掛川宿に無償下附され聚学校として使われました。その後も女学校、掛川町役場、掛川市庁舎、農協、消防署などに転用され続けました。
掛川城の歴史
葛布
掛川は『葛布』も有名です。掛川に葛布の製法が生まれたのは、その昔、掛川西方の山中にある滝の側で庵を結んでいた行者が、滝水に打たれ、さらされている葛蔓を見つけ、それが繊維となると思い、老婆に葛の繊維を採る方法を教えたと伝えられています。記録が残るのは鎌倉時代からで、当時は、蹴鞠の奴袴(さしきぬ)に用いられ、江戸時代に入ると東海道の掛川宿の繁栄と共に、広く世間に知られ、裃地・乗馬袴地・合羽地などに使用され、また参勤交代の諸大名の土産としても大変珍重されておりました。時代と共に生活様式が変化し、問屋は大半が転業してしまいましたが、現在でも小物などに利用されています。
太鼓櫓
1854年(嘉永7)の大地震以後に建てられた櫓で、何度かの移転の末、1955年(昭和30)に三の丸から荒和布(あらめ)櫓のあった現在の位置に改築の上、移築されました。城下に時を知らせるための大太鼓を納めていた建物です。
腰石垣と玉石側溝
土塁の裾(腰)から玉石積みの石垣側溝が見つかりました。新たに積まれた登城路の石垣の下に保存されています。
掛川城天守閣
江戸時代になると、掛川城には徳川の譜代大名数氏が城主を引き継ぎ、最終的には太田氏(太田道灌の子孫)の居城となり、明治維新まで続きました。
掛川城模型
1644年(正保元)、幕府が諸大名に命じて提出させた城絵図と発掘調査結果を基本資料として150分の1で造られています。塩やぐら・銭やぐらのあった腰曲輪や内堀の松尾池、乾堀などは現在ありませんが、模型では正保年間頃の最盛期の掛川城主要部が再現されています。有田焼で造られています。
山内一豊夫妻浮彫刻
若き日の一豊が名馬を欲したところ、妻千代の輿入れ時の持参金として持ってきた黄金によって願いを叶えたという「内助の功」が美談として伝わっています。戦前は教科書にも載っていたそうです。この美談は後世に作られたものとも言われています。掛川城は山内一豊の出世城として有名です。妻の「笠の緒の文」によって一躍、禄高の大きな藩主になりました。
笠の緒の文
一豊は、関ヶ原の合戦が起こる直前、徳川家康とともに上杉攻めの陣中にいました。既に家康側についていましたが、元々は秀吉の腹心で、家康からは灰色に見られていてもおかしくない状況でした。そんな折、一豊のもとに妻からの
笠の紐に編み込んだ密書が届きました。文には石田三成ら大坂方の動きが記されていました。一豊はこの情報を家康に提供し、また掛川城も差し出し、証を立てることができたということです。
掛川城蕗(ふき)の門
掛川城の内堀(蓮池)のほとりに建てられていた四脚門です。大手門や仁藤門などから本丸、二の丸などの城の要所に至る道筋にあり、小さいながら重要な門でした。廃城後の1872年(明治5)に円満寺が買い受け、円満寺の山門として現在地に移築されました。その際に柱の下を76cmほど切り落としたそうです。
東光寺と成田山
東光寺の起源は、720年代(養老)行基菩薩が開基、真言宗の草庵でした。この寺の本尊薬師如来は将門の念持仏であり、940年、天慶の乱後、将門等十九人の首級をこの地に葬った時、ここにあった草庵に祀り、平将寺を建立いたしました。成田山(不動明王尊)は、明治10年千葉県の成田山新勝寺より勧請し不動堂を建立しました。
十九首塚
関東一円を制覇した
平将門は、朝廷への反逆者とみなされ、940年(天慶3)に藤原秀郷軍によって討伐されます。平将門と家臣18名の首は、検視のために京に運ばれる途中、ちょうど掛川のこの地で京から派遣された勅使と出会ったため、ここで検視を受けたのち埋葬されたといいます。元々は19基の塚が点在していたようですが、時代とともに姿を消し、将門のものとされる大きな
五輪塔だけが十九首公民館の脇に永く祀られてきましたが、近年、これを取り囲むようにして18基の首塚が新しく作り直されました。地元では首塚を町の守り神として、彼岸と命日にあたる8月15日に供養祭が行われています。
11:30 掛川をあとに袋井へ向かいます。