謡曲熊野の郷里、あばれ天竜を越えて『ざざんざ』の浜松へ

2003年8月23日

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10:20 磐田駅を出発します。

名残松

宮之一色一里塚

日本橋から数えて63番目の一里塚です。昭和46年に北塚のみが復元されました。

宮之一色秋葉常夜灯

1828年(文政11)に建てられたものです。竜の彫り物があるので「竜燈」とも呼ばれ、大変貴重なものです。風除けに灯籠の周りを板で囲み上部は明かりが漏れるよう格子になっています。

若宮八幡宮

明治6年、近隣28か村の神社を統合して誕生しました。毎年10月に行われる祭は、17台の山車が曳き回され華やかに行われるそうです。

天竜橋跡

天竜川は明治の初年まで長い間渡船によって通行していましたが、1874年(明治7)架橋の第一段階として舟橋が造られ、明治9年に木橋に架け替えられました。天竜橋も池田橋と同じように長い間「橋銭」を徴収していましが、昭和8年に国道に鉄橋が完成されたため、木橋は廃止されました。

天竜川渡舟場跡

徳川家康により手厚く保護された池田の渡しは、中世からの渡し場です。江戸時代には池田を含めて3か所の渡し場ができていました。宿場としても栄えた池田には遊女も多かったようで源頼朝の弟、範頼も池田の遊女の子と言われています。

池田の帆掛け船

池田では明治に入り渡船がなくなった後に帆掛け船などで、天竜川上流部へ米などの生活物資を送り、上流部からは材木、鉱石などを池田で陸揚げし、トロッコにて中泉駅(現在の磐田駅)まで運搬するための中継点としていました。

常夜灯

天白神社入口

「秋葉山常夜灯」と彫られていますが、鋼製の常夜灯です。狭い敷地に火の見櫓やお地蔵様があります。ここから奥へ行くと天白神社へ至ります。

常夜灯

このあたりは、謡曲「熊野」で知られる、「池田村」でした。平宗盛に寵愛された熊野御前の郷里でもあります。行興寺には熊野御前母子のお墓もあり、本堂横の「熊野の長藤」は花房が1mにも達し、天然記念物に指定されています。

池田の渡し 歴史風景館

歴史風景館には、「池田の渡し」の長い歴史を物語る品々が多数展示されています。また、表には徳川家康が池田の渡船衆に与えたとされる朱印状のレプリカが掲げられていました。

謡曲「熊野」・平家物語

池田は天竜川沿いの中世からの宿場でした。「熊野(ゆや)」は、この地の長者の娘でした。美人であった熊野は遠江の国守、平宗盛に望まれて都へ上ります。しかし母が病に倒れたとの知らせを受けて、すぐに故郷へ帰りたいのですが、宗盛が承知しません。熊野は清水の舞台で舞いました。「いかにせむ都の春も惜しいけれど 馴れし東の花や散るらむ」都の春も名残惜しいけれど東の母が亡くなってしまうかもしれませんと。これに心動かされた宗盛は帰郷を許したそうです。

池田橋の跡

時代が江戸から明治へと変わり、世の中が変化したように天竜川の渡船も橋へと変わりました。豊田町でも天竜橋、池田橋が明治初期に架けられ、池田橋はこの付近に架けられました。橋は木橋で「橋銭」をとる有料橋で、大人三銭、小人二銭でした。昭和8年に旧国鉄の天竜川鉄橋が完成したことにより廃止されました。河川敷には「池田の渡船場」を再現した池田の渡し公園があります。

天竜川

「暴れ天竜」と言われ、暴れ川として名高い天竜川は、船渡しのため、大井川と比較すると川留は少なかったのですが、豪雨の度に洪水となり住民を悩ませていました。

明治天皇玉座迹

明治天皇が北陸東海地方の巡幸の中で、明治11年11月1日に天竜川堤防修築のため設立された「治河協力社」の建物内で休憩しました。その際、天竜川の治水に尽力した功を賞して金原明善夫妻に拝謁を賜り、紅白縮緬を下賜されました。建物は明治25年に焼失しましたが、明治31年、建物跡前面に「玉座迹」が建碑され、また、明治天皇巡幸の地として「明治大帝御聖蹟」が昭和3年に建てられました。

舟橋跡・天竜川木橋跡

天竜川は長い間橋が架けられませんでした。大きな川に橋がなかったのは、いろいろな説がありますが、軍事目的が一番大きな理由です。また当時の土木技術では、洪水のたびに橋が流されてしまったので、橋をかけるのをやめてしまったという理由もあります。江戸時代は「池田の渡し」の渡船が使われていました。明治7年に小舟を並べた「舟橋」ができ、明治9年には「木橋」ができて昭和の初めまで使われていました。

六所神社

六社神社は三柱の海神と三柱の航海の守り神の六柱の神様が祭神として祭られています。かつて社殿は西向きに天竜川を背にして建てられていたそうです。西向きの神社は珍しく、中野町を見守る鎮守の意味があるのではないかと言われているそうです。現在の社殿は天竜川堤防の改修により境内が狭くなり、南向きに建てられています。

六所神社

天竜川を船で渡った旅人は、六所神社からまっすぐ西へ向かいます。浜松市内で一番東に位置する東区中野町は、江戸へも京へも約60里、東海道のちょうど真ん中にあたる町であったからと伝わります。十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の中に、「舟よりあがりて建場の町にいたる。此処は江戸へも六十里、京へも六十里にて、ふりわけの所なれば中の町といへるよし」と記されています。今でも六所神社から西を望むと、東海道が緩やかに曲がりながら伸びている景色にかつての街道風景を思い描く事が出来ます。

軽便鉄道軌道敷

中野町には、明治42年から昭和12年まで浜松と中野町の間には「軽便鉄道」が走っていました。

軽便鉄道

軽便鉄道とは、線路の幅が小さな小型の機関車です。中野町には、昭和の初め頃、芝居小屋「天竜座」がありました。浜松から軽便鉄道に乗って中野町の天竜座を訪れる人で賑わったそうです。天竜座は戦争時中、空襲の標的にされる事を恐れ、解体されたそうです。しかし、空襲の被害が少なかった中野町には伊豆石の蔵など貴重な建物が残されています。

かやんば高札場跡

萱場村の「萱場」が訛ったものが「かやんば」。萱場村の高札場があった場所です。

金原明善生家

安間の豪農、明善は堤防の築造工事を行います。また、山の保水能力を高めるために上流の山間部へ植林を行い、用水事業なども行っていました。広い敷地には江戸時代の建物が今も残り、往時の姿をとどめています。

明善記念館

金原明善の業績を紹介しています。関連する資料を多数展示しているそうです。

浜松城古図

家康が浜松に居城していた17年間は家康にとって辛いことがたくさんありました。姉川、長篠、小牧長久手の合戦、三方ケ原の合戦では武田信玄に大敗し、命からがら逃げ帰る途中であまりの恐ろしさに「脱糞」した、とも言われています。また、織田信長の命により正室築山御前、長子信康を亡くしたのもこの浜松でした。

浜松城

古くは曳馬城(ひくまのじょう)といいましたが、1570年(元亀元)に徳川家康が遠州攻略の拠点、また居城とするため増改築を行いました。家康は浜松城には17年間在城しました。家康の後には譜代大名が務め幕臣へと出世した者が多かったため「出世城」と言われました。中でも老中、水野忠邦の名は良く知られています。 歴代の城主は城下の整備も進め、商人に塩や魚の専売権を与えるなど商業の発達にも力を尽くしました。往時は特産品の遠州木綿を扱う店が多く、軒を連ねていました。

浜松城石垣(野面積み)

現在の天守閣は昭和33年に再建されたものですが、石垣は往時のものが一部残されています。一見崩れやすいように見えますが、400年以上崩れずに残っています。

石の大きい面を内側にして長く押し込み、その内側に小さな栗石を1〜1.5mほど詰め、さらに砂利を入れます。水はけもよく、水圧で崩れることがありません。石垣表面の隙間には詰石をし、外観は乱雑ですが、堅固に造られています。また、突角部には長方形の石材の小口を側面が交互になるように配した算木積み法を用いています。史料が残っていないため、いつ頃造られたのかわかりませんが、1590年頃、二代城主、堀尾吉晴の頃と考えられています。

井戸

天守曲輪に井戸が残されていますが、既に水は枯れているそうです。かつては城内に10本箇所もの井戸があったと伝わっています。

浜松の音はざざんざ

1432年(永享4)将軍足利義教は、富士遊覧の旅の途中、浜松の松林で酒宴を開きました。義教は浜風にざわめく松の響きを聞いて『浜松の音はざざんざ』と詠みました。長唄「花見踊り」には、「手先揃えてざざんざの音は浜松よんやさ」と歌われ、「ざざんざの松は」、浜松という地名の語源となったとも言われます。浜松城東に「ざざんざの松の碑」があります。

徳川家康像

「若き日の徳川家康公の銅像」です。この銅像は1981年(昭和56)に建てられました。家康が手にしているのは「勝草」と呼ばれた、めでたい歯朶(しだ)です。シダとは、お正月飾りにも使われるウラジロのことです。歯朶は徳川家康の兜の前立としていたものです。

大手門跡

道路中央に浜松城の正門である大手門がありました。間口14.6m、奥行7.3mの瓦葺きの建物で、常に武器を備え、出入りは厳しく取り締まられていました。

佐藤本陣跡

佐藤本陣は、建坪は225坪ありました。浜松宿には天平年間、箱根に並び本陣6軒、旅籠94軒があり、遠江国、駿河国を通じて最大の宿場でしたが、本陣建物は戦争で焼失しました。

15:30 浜松をあとに舞坂へ向かいます。