2003年4月27日
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13:00 いよいよ東海道、難所の一つ、大井川へ向かいます。
大井川越遺跡
大井川越遺跡の町並みが始まります。川会所や、番宿(人足の待合所)などの風景が復元されています。
橋下仲間の井戸
つるべ式の井戸です。掘られた時代は不明ですが、井桁には利用者仲間の名前が刻まれています。昭和29年に水道が敷設されるまで使われていました。
川越遺跡案内図
番宿
人足たちの集合場所が一番宿、二番宿と呼ばれる番屋であり、年輩者になって川越業務を直接やらなくなった人たちが集まった立会宿や仲間の宿、川札をお金に変えた札場などが近くにありました。
川会所跡
川会所には、川庄屋のもとに年行事、待川越、川越小頭などの役がおかれ、その日その日の水深を計り川越賃銭を定め、大名から庶民まですべての通行人に対する渡渉の割り振りや、諸荷物の配分など日々の運営をはかる仕事が行われました。
せぎ跡
川の水を堰き止めていたところです。大雨などで推移が増した場合に両側の溝のところに上から板を差し込み、堰き止めていたと思われます。
朝顔の松
浄瑠璃「朝顔日記」を伝える松は、目通り1.56m、高さ20mありましたが、昭和10年代に枯れてしまい、地元人々により堂が建てられ新たな松が奉納されました。下の石碑には「風松久髣蕣歌曲枯髄猶留瞽女魂」と刻まれています。「松風が朝顔の弾く三味線の音に似ている。松は枯れてしまったが、ごぜ(女性の盲人芸能者)の魂はいまだにその胡髄に宿っている」と解釈されるそうです。
朝顔の松
清水区入江南町の法岸寺には、正廣院殿永安種慶大姉の墓があります。この女性の波乱万丈な人生から「朝顔日記」深雪のモデルとされています。毎年7月には地元商店会主催の朝顔祭りが開催され、菩提の供養とともに朝顔の出来を競い深雪を偲んでいます。
朝顔日記
安芸の国の娘、
深雪が宮仕え中の京都で蛍狩りに行き、
宮城阿曽次郎という青年と恋仲になります。国へ帰った深雪は親から駒沢次郎左衛門という武士を婚約者と決めたと聞かされます。しかし、その人こそが駒沢家を継いだ阿曽次郎とは知らずに家出をし、
朝顔という名の三味線弾きとなって阿曽次郎を訪ね諸国をさまよううちに目が見えなくなってしまいます。
島田宿へやってきた時に三味線弾きとして、阿曽次郎の座敷に声がかかりますが、お互いにわからずに別れてしまいます。後で阿曽次郎だと知った朝顔は追いかけますが、大井川まで来ると川止め。半狂乱になった朝顔は激流に飛び込もうとしますが、宿屋の主人に助けられ、後に目もよくなり、阿曽次郎と結ばれました。
川越制度が確立されたのは1696年(元禄9)でした。それまでは明確な規定はなかったようですが、年々交通量が増し、これに対応するため幕府が規定を作成しました。料金は、その日の川幅と水深によって決まりましたが、水深が1.4mを越えると川留めとなりました。川留めは4〜6月に集中しましたが、通常は1〜2週間くらいでしたが、1868年(慶応4)には28日間にもなり、最長記録となっています。
島田市博物館
江戸時代の大井川島田宿の川越しをわかりやすく紹介するほか、立体的な映像のジオラマビジョンで島田宿の様子を見ることができます。
川越広場
弥次さん・喜多さんは、安倍川に続き珍道中を続けます。大井川では渡し賃を安くあげようと、侍に化けて交渉しますが、結局は見つかってしまい怒られてしまいました。
蓮台
女性や大名の籠などはこうした蓮台に乗せて川越をしていました。男性の旅人は安価な肩車などが多かったようです。籠は蓮台の上に直接乗せて運んだようです。料金は水位や川幅によってまちまちでしたが、江戸時代中期、旅人3人とその荷物に蓮台と16人の人足で現在の2万円ほどだったといいます。大名行列においては、大井川を渡るだけで一千万円以上かかったとされます。
大井川
南アルプス南部、間ノ岳を源流に、延長168kmの一級河川で駿河湾に流れ出ます。現在は、大井川橋を渡りますが、1kmほどあり、トラスは17連結、歩いても、歩いても金谷側になかなかたどり着かない長い橋です。
金谷宿 川越し場跡
金谷側のこのあたりにも島田側と同じように番宿や川会所がありました。
佐塚本陣跡、柏屋本陣跡の写真がとれていませんでした・・本日は掛川まで行く予定ですのでかなり焦っていました。
金谷一里塚跡
1746年(延享3)の「東海道巡見記」によれば「金谷一里塚榎木」と記されています。
ここで左折し、JR金谷駅手前のガードをくぐると、道は細くなり、景色は一変します。
14:00 急ぎ足で、日坂に向かいます。