お江戸日本橋七つ立ち−高速道路下の日本橋−道路の起点として

2002年5月3日

※この記事は2018年に当時の日記や記憶を思い出しながら書いています。

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始発で東京駅へ

天気は快晴。清清しく、今日はきっといい一日になりそうな予感です。2018年の東京駅とは違いますね。ドームがないです。ドームが復元されたのは2012年です。

一石橋

江戸時代初期の「武州豊島郡江戸左図」に木橋の記載がみられることから、寛永年間、あるいはその前から存在したとされています。大正11年に架け替えられた橋は、アーチ石積み、重厚な欄干と親柱、照明なども細部まで西洋的なデザインでモダンな造りです。 別名「八つ見の橋」と言われ、橋上に立つと八つの橋を見渡せたといい、江戸の名所の一つ、広重も「八つ見の橋」を描いています。 むろん、現在はビルや高速道路に阻まれ、見渡してもビルだらけであります・・・

道に迷いながら通行人に道を聞いてようやく日本橋に到着

2018年現在、スマホで簡単に地図もわかるし、自分の位置もわかります。当時は『完全 東海道五十三次ガイド』という文庫本一つで旅にでました。

地図はざっくりとしていて、この先も何度も道を間違えたものです。

日本橋

橋の上を首都高が走り、広重の浮世絵「日本橋」とは程遠いです。「日本橋」の文字はラストエンペラー、徳川慶喜が書いたものだそうです。

7:45 ここが東海道の出発点。さあ、スタートだ。ここから487kmを歩く。

さて、ゴールにはどんなことが、何がまっているのだろう・・

お江戸日本橋七つ立ち

七つは4時頃でしたが、、既に8時近いです・・

東京市道路元標

日本国道路元標

日本国道路の起点、幕府が定めた五街道の起点でもあり、明治政府はこれを踏襲しました。石碑の場所にあるプレートはレプリカで、本物は日本橋の中央、道路のど真ん中に埋め込まれています。プレートの文字は、当時の総理大臣佐藤栄作の筆によるものです。

日本橋の石碑、モニュメント

日本橋魚市場発祥の地

寛永年間の頃、日本橋魚河岸は江戸城内の膳所へ魚を献上していました。その帰路に余った魚を販売したことから市場が始まります。魚を取る人と売る人の分離がなされていったそうです。近隣には練り物、海苔、鰹節などの海産物を売る店や飲食店も集まり、大いに賑わいました。

京橋

京橋も日本橋と同じく首都高の下敷きに・・・京橋は、日本橋から京都に向かって最初の橋だから「京都」とついたといいます。かつての日本橋界隈の賑わいは、この京橋あたりまでだったそうです。

京橋の子柱

江戸時代の京橋は、幕府が架ける公儀橋であり、擬宝珠(ぎぼし)を据えることが許された橋でした。

江戸歌舞伎発祥之碑

1624年(寛永元年)に猿若座(後の中村座)の猿若勘三郎(初代中村勘三郎)が中橋南地(日本橋と京橋の間)でやぐらを掲げたのが江戸歌舞伎の始まりです。

京橋大根河岸青物市場蹟

1661年(寛文元年)外濠川にかかる数寄屋橋付近にあった数件のサツマイモ問屋から派生したものです。遠方からも多くの作物が集まり、数年で店が増加します。しかし、江戸城築城の際、外濠川には水門がつけられ、市場が開けなくなったことから京橋へ移転したそうです。近郊で採れた大根が多く売られていたことから「大根河岸」と呼ばれたようです。魚河岸も青物河岸も橋のたもとに開かれていたことは、やはり水運という面が大きかったのでしょう。

京橋の親柱

京橋は京橋川に架けられていた橋ですが、1959年(昭和34年)に京橋川は埋め立てられてしまいました。親柱と子柱だけがモニュメント的に残されています。

煉瓦銀座之碑

明治5年2月26日、銀座は全焼し、延焼は築地方面にまでおよび、焼失戸数4000戸と甚大な被害でした。このため、当時の東京府知事由利公正は銀座全域の不燃性建築を推し進め、国費をもって煉瓦造二階建アーケード式洋風建築を完成し、煉瓦通り商店街の基礎を形成しました。

銀座発祥之碑

徳川家康が駿府から銀貨鋳造の役所「銀座」をここへ移したのが銀座の始まりですが、銀座という地名が正式に付けられたのは明治時代になってからです。

銀座和光

徐々におしゃれで華やかな町に入ってきました。

新橋の親柱

新橋は、汐留川に架かる橋でしたが、1963年頃には埋め立てられ、現在は親柱だけが残されています。汐留川は浜離宮庭園あたりの最下流の900m程度しか残っていません。

銀座柳の碑

1874年(明治7)、日本初の街路樹として松、楓、桜が植えられました。しかし銀座は埋立地のため、地下水位が高く枯れ始めたため、湿地に強い柳に植え替えらます。明治17年には銀座の街路樹がほとんど柳になりますが、道路拡幅、関東大震災、戦争などにより焼失してしまいました。現在は、銀座に柳を復活させる運動がされています。

江戸開城西郷南洲勝海舟会見之地

江戸城を明け渡す会談が西郷隆盛と勝海舟によって行われた田町の薩摩藩邸があった場所です。

当時、蔵屋敷の裏はすぐ海に面した砂浜で薩摩藩国元より船で送られてくる荷物はここで陸上げされました。現在は埋め立てられ三菱自動車のショールームとなっています。海までは遠いですね。

会談は二人で行われたように描かれていることが多いですが、実際は大久保一翁、桐野利秋なども参加していたようです。

高輪大木戸跡

1710年(宝永7年)に芝口門に建てられたのが起源です。1724年(享保9年)に現在地へ移転されました。江戸の南口として夜間は閉めて通行止めとし、治安の維持と交通規制を備えていました。石垣は、当時のものだそうです。

車町

江戸時代、土木工事に使われる石や木材の運搬には牛車が使われていました。幕府は京都四条車町の牛屋を招いて運搬に従事させていましたが、1639年には牛車の置き場として高輪の土地を牛屋に与え、これが車町の期限となったそうです。1703年には牛は1000頭いたといわれ、反対側の願生寺には牛供養の塔があるそうです。

品川駅を過ぎて第二京浜から左手の旧道へ入っていきます。

問答河岸

1640年、徳川家光が付近にある東海寺を訪れた際、ここで沢庵禅師と問答をしたそうです。

問答河岸

家光 「海近くして東(遠)海寺とは是如何」

沢庵 「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」

昔の人は言葉遊びが上手。この後の東海道中でもいくつも言葉遊びに遭遇しました。

法禅寺、品川小学校発祥之地

品川小学校は明治7年、私塾を引き継ぐ形で開校された品川区で最も古い小学校です。現在は中高一貫校の「品川学園」となっています。

品川宿は商店街になっていました。10:30 品川宿到着!!
東海道起点の日本橋から品川までの道のりは、京橋、銀座、新橋と都心の繁華街でした。変わってしまった町並みの中にも時代の流れが感じられる場所は随所にあって楽しかったですね。