松並木を抜け、江戸を旅立ち初めての城下町小田原へ

2002年6月2日

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9:30 大磯宿をあとに小田原へ向かいます。

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新杵

明治24年から続く、島崎藤村や吉田茂にも愛された和菓子屋です。名物の西行饅頭、虎子饅頭の他、四季折々のお菓子や彩り豊かな干菓子が売られています。

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新島襄終焉の地

同志社大学設立を目指す中、心臓疾患を患い、療養中の大磯・地百足屋旅館で47歳の生涯を閉じました。中山道安中宿には、記念会堂や旧宅が公開されています。

新島襄

1843年(天保14)江戸神田の安中藩邸内で、藩士新島民治の長男として生まれました。欧米先進国の知識を求めて、1864年(元治元)函館より密出国し、米国に渡ります。アメリカ訪問中の岩倉使節団と出会い、通訳として参加しています。また、クラークの生徒となり、これが縁でクラークは日本に来ることになりました。キリスト教による教育を行う決意をして帰国し、京都に同志社英学校を設立しました。

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大磯照ヶ崎海水浴場発祥の碑

1885年(明治18)に大磯海水浴場は誕生しました。大磯は海水浴場発祥の地です。海水浴の効用を蘭書で知った元軍医総監松本順が大磯に宿泊した折に大磯海岸を訪れ、海水浴場の条件に合うとして、医療として始まりました。
TOO001 鴫立庵の裏はすぐに海になります。鴫立沢が海に注がれていきます。

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湘南発祥の地

崇雪が建立した「著盡 湘南 清絶地」(ああ、しょうなんせいぜつち)と刻まれた標石から湘南と呼ばれるようになったとされます。中国湖南省にある洞庭湖のほとり、相江の南側を湘南といい、大磯がこの地に似ていることから刻んだと言われています。

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鴫立庵

西行法師が大磯で詠んだ句、『ここうなき身にもあはれは知られけり 鴫立澤の秋の夕暮』、崇雪は1664年(寛文4)この句を慕い、ここへ草案を結び、標石を建て旅人に鴫立澤を示し、「著盡 湘南 清絶地」と景勝を讃えました。

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鴫立庵

1695年(元禄8)俳人の大淀三千風が入庵し、「鴫立庵」と名付け第一世庵主となりました。現在では京都の落柿舎、滋賀の無名庵とともに日本三大俳諧道場の一つと言われています。「法虎堂」には、虎御前の小さな木像があるそうです。

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大淀三千風・大本朱人句碑

大淀三千風(おおよどみちかぜ)は、1639年(寛永16)に現在の松坂市の商家に生まれました。30才で出家し、松島見物に行くと、そのまま住み着き仙台に15年間暮らし多くの門人を育てました。その後、行脚生活が始まり、7年も全国を行脚しながら多くの句を詠みました。これをまとめたのが「日本行脚文集」です。行脚の行程は松尾芭蕉も遠くおよばないそうです。

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藤村藤村邸

町屋園と呼ばれた藤村の旧宅は、三間の平屋建ての民家 で外壁には杉の皮、引き戸には大正ガラスが使われています。小庭の眺めは藤村の心の慰めで、この家を「靜の草屋」と呼んでいました。藤村は69才で大磯へ転居しますが、亡くなったのは71歳です。この家ではわずか2年を過ごし亡くなりました。
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島崎藤村

中山道馬籠宿の本陣を務める島崎家の四男として生まれました。島崎家の祖は相模国三浦半島津久井発祥の三浦氏の一族で、島崎重綱の代に木曾義在に仕えて木曽谷に入り、その長男重通が郷士として馬籠を開拓して中山道の宿駅として整備し、代々本陣や庄屋、問屋を務めた名家の生まれでした。 明治女学校、東北学院で教鞭をとるかたわら「文学界」で北村透谷らとともに浪漫派詩人として活躍します。その後、徐々に小説を書き評価されます。代表作に『若菜集』、『破戒』、父をモデルとした『夜明け前』、『春』、『椰子の実』『千曲川旅情のうた』は今も唄い継がれています。

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小陶綾ノ浜(こゆるぎのはま)

「ゆるぎ」とは波の動揺を現し、かつては余呂伎、余綾と書かれ、現在の大磯町と二宮町は相模国余綾郡と呼ばれていました。万葉集には「相模道の余呂伎の浜の真砂なす児らはかなしく思はる丶かも」と詠まれています。平安時代の古今和歌集には「こよろぎ」と詠まれていましたが、その後の歌集には「こゆるぎ」と詠まれました。歌枕の小余綾ノ磯は、現在の大磯から国府津あたりまでの海浜一帯を指すと言われています。

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東海道松並木

今から400年前に諸街道の改修の際に植えられたもので、幕府や領主により保護されました。約150年前からは厳しい管理のもと、立ち枯れたものは、村ごとに植え継がれ大切に育てられてきたものです。

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街道の並木は、奈良時代の759年(天平宝治3)、東大寺の僧普照の奏上によって、駅路の両側に旅人が飢えないように、果樹を植えたのが始まりといわれています。江戸幕府もまた街道に並木を植えることを命じています。徳川家康が江戸幕府を開いた翌年の1604年(慶長9)に、東海道をはじめとする諸国の街道の両側に松や杉を植えたというのがそれです。並木は、暑い夏には旅人に緑陰を与え、冬は吹き付ける風や雪から旅人を守ります。また風雨や日差しから道そのものを守る役割もありました。柳田国男によると、並木は路標の役割をも果たしたといいます。雪で道がわからなくなったときに、並木に沿って歩けば迷うことがないからです。

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伐採予定の松

徐々に老木の松はマツクイムシや空洞化などにより伐採されてしまいます。植え継いだ新しい松が丈夫に大きく育つことを祈らずにはいられません。

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松の年輪

マツクイムシの被害にあった樹齢217年の老松は、平成6年に伐採されました。切株は特殊なコーティングがなされて、保存されています。

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滄浪閣跡(そうろうかく)

伊藤博文は、小田原の地に別邸、「滄浪閣」を建築しました。1890年(明23)頃、伊藤が小田原の滄浪閣へ行く途中、大磯に立ち寄り白砂松林の大磯が気に入り、梅子夫人の病気療養のためにも、この地に別荘を建築することに決め、完成すると小田原の滄浪閣を引き払い、大磯の別荘の方を「滄浪閣」と名づけました。1897年(明治30)、伊藤は本籍を東京から大磯町に移したため、滄浪閣は伊藤の別荘ではなく、本邸となりました。当時の大磯には、山縣有朋や西園寺公望、大隈重信等の政財界要人が別荘を構え、滄浪閣への来訪者も絶えなかったといいます。1907年(明治40)頃の大磯には、150戸以上の別荘が存在したそうです。伊藤亡き後は所有者が度々変わり、最終的には西武鉄道が購入し、現在は大磯プリンスホテル別館滄浪閣となっています。
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道祖神

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二宮町

二宮町へ入ります。もう少し進み葛川に架かる塩海橋を渡ると二宮の町並みへ入ります。町の名前は、町内にある川勾(かわわ)神社が「相模国二之宮」であることに由来するそうです。

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小田原市に入ります。

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押切坂

ここから小田原領内に入ります。大磯宿と小田原宿の中間に位置し、宿場間の距離が16kmと長い上、押切坂、酒匂川を手前に控えていることから間の宿として多くの茶屋や商店が軒を並べる「梅沢の立場」と呼ばれ、賑わっていました。

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車坂

たくさんの歌がこの車坂で詠まれています。3つの句が案内板で紹介されています。

『鳴神の声もしきりに車坂 とどろかしふるゆふ立の空』 太田道灌

戦国の和歌集「平安紀行」にあり、作者は太田道灌とされますが、異説もあります。

『浜辺なる前川瀬を逝く水の早くも今日の暮れにけるかも』 源実朝

「吾妻鏡」の建保元年の条に記録があり、実朝が鎌倉をでて箱根、伊豆の二権現へ参拝する際、前川まで来た時に正月でも洪水があり、川を渡る事ができず、日暮れまで待つ間に詠んだものです。

『浦路行く こころぼそさを浪間より出でて 知らする有明の月』北林禅尼(阿弥陀)

「十六夜日記」は藤原為家の側室、阿弥陀が為家の亡き後、先妻の子為氏と我が子為相との相続争いの訴訟のため京を発ち、鎌倉へ下る紀行文です。酒匂に宿泊し、明日鎌倉へ入るとうい時に詠んだものです。

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大山道道標

彩色した不動尊を乗せた道標は、西からの大山への参拝道。1835年(天保5)建立。秋葉山常夜灯、道祖神が並んでいます。

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近戸神社

創建などの詳しいことは不明です。この地は、昔は塩田があったので、梅干、塩辛など塩を使う漬物業が栄え、今も続いています。また、みかんの産地としても古くから知られています。道祖神祭や近戸神社祭典などの伝統行事がしっかりと根付いています。社叢(しゃそう・神社の森)は小田原市の天然記念物に指定されています。
鎌倉時代の東海道は、酒匂川の手前を北上し、曽我を経由して足柄越えをする経路が常でした。曽我は曽我兄弟ゆかりの地であり、曽我の城前寺には、曽我兄弟をはじめ義父の祐信、母満江の供養塔があります。また境内には、兄の十郎が恋人である虎御前をしのび腰掛け、笛を鳴らしたといわれる忍石もあります。

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小田原城江戸口見付

小田原城は、1416年(応永23)大森氏が築いた山城ですが、1495年(明応4)、北条早雲が伊豆国韮山城から攻め入り、小田原城を奪いました。以来96年に渡り北条氏により治められ、町は繁栄します。しかし4代氏政、五代氏直の時代、沼田領名胡桃城(群馬県月夜野)まで奪い、秀吉からの上洛の要請も無視したことにより、秀吉は激怒しました。秀吉の命により東海道からは家康、織田信雄、東山道からは前田利家、上杉景勝らが15万もの大軍にて小田原城へ攻め込みました。籠城しますが、ついに北条氏は滅亡します。

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かまぼこ通り

「伊勢兼」、「わきや」のあたりから、通称・かまぼこ通りが始まります。小田原のかまぼこの始まりは、明らかになっていませんが、天明年間の小田原城主、大久保忠信の時代、或いは北条早雲の時代(1432?1519年)という説もあります。小田原は沿岸漁業が盛んでたくさんの魚が獲れていました。この魚の保存利用として誕生したのが小田原蒲鉾です。漁獲される魚の評判を聞き、日本橋の蒲鉾職人などが小田原に移り住んだともいわれています。

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旧本陣古清水旅館

清水金左衛門本陣は、小田原宿に4軒あった本陣の筆頭で江戸時代に町年寄も務め、宿場町全体をまとめていました。敷地面積は240坪でした。宿駅制度が廃止された後も旅館業を営んでいましたが、昭和20年の最後の空襲で建物は焼けてしまいましたが、後に再建しました。

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明治天皇宮ノ前行在所

清水金左衛門本陣に1868年(明治元)、東行の際を始めとして5回宿泊しています。
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小田原宿なりわい交流館

1932(昭和7)年に建設された旧網問屋を再整備し、「お休み処」として2001(平成13)年に開館しました。小田原の典型的な商屋の造りである「出桁造り」という建築方法が用いられ、2階正面は出格子窓になっています。特に2階は、震災後の耐震工法として採用された洋風木造キングポスト構造という珍しい建物で、内部には鉄骨トラスまでが組み込まれた当時の小田原の時代背景を感じされる貴重な建物です。関東大震災の際、この構造で建てられた「小田原駅」が倒壊しなかったため、その後この構造が広く採用されたそうです。

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片岡本陣跡・明治天皇本町行在所

明治天皇が片岡本陣に宿泊したのは明治11年、北陸・東海道巡幸の際でした。1860年(万延元)に片岡家に生まれた片岡永左衛門は、明治時代に小田原町の助役を務め、「明治小田原町誌」を執筆するなど小田原の近代史研究に功績を残しました。

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小西薬局

1633年(寛永10)創業。今でも創建当時の看板や薬を作る昔の道具も保存されています。 建物は、関東大震災で崩れてしまいましたが、燃えなかったため、瓦礫で作り直したそうです。

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ういろう

北条早雲の時代にこの地で創業しました。「ういろう」は外部家で創設され、600年以上の伝統があります。明治18年に建てられた蔵を利用して「ういろう」を紹介する小さな博物館もあるそうです。

ういろうの始まり

外郎(ういろう)家の始祖は、中国元の陳延祐という人です。元が明に滅ぼされると日本へ帰化し、陳外郎と名乗り、博多へ移ります。二代宗奇は、足利義満の招請で京都へ移り、朝廷の典医や幕府の顧問となります。後に明の実家へ戻り「霊宝丹」の処方を持ち帰り「透頂香」という薬を作りますが、外郎家で作っている薬なので「ういろう」と呼ばれました。朝廷の接待役も務めていた時に、接待に用いる菓子を考案し、これが菓子の「ういろう」と呼ばれました。その子定治が北条早雲により小田原に招かれ、以後この地で薬と菓子を作り続けています。菓子の「ういろう」は、多くの人が名古屋が発祥と思っているようですが、実は京都が発祥と思われます。

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箱根口門跡

小田原城の箱根口門があった場所です。また、ここに残された土塁は御門から続く三の丸土塁の一部で国の指定史跡となっています。土塁内側の本町小学校には、藩士・久保忠真が1822年(文政5)に創設した旧幕府時代の藩校「集成館」がありました。
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銅門(あかがねもん)

二の丸の表門でしたが、明治5年に解体されてしまいました。発掘調査に基づいて、平成9年に復元されました。昭和58年から平成4年に掛けて行われた発掘調査では、江戸時代の堀や石垣だけでなく、戦国時代の井戸や水路、障子堀(底を障害物で仕切った堀)と呼ばれた堀が発見され、戦国時代から江戸時代にかけて何度も改修されていたことがわかりました。

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銅門土塀模型

江戸時代の技術、工法を採用しているため、使用する木材や白壁の材料である土の収縮や乾き具合などを確認するために造られた模型です。壁の中の構造がよくわかります。

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常磐木門

本丸の正面に位置し、小田原城の城門の中でも最も大きく堅牢に造られていました。現在の門は明治初期に撮影された写真などを参考に復元したもので、1971年(昭和48)に完成しました。
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小田原城天守閣

1634年(寛永11)には、三代将軍家光が小田原城天守閣に登り、武具を見たり眺望を楽しんだ記録が残っています。1703年(元禄16)の大地震で倒壊しますが、天守閣は1708年(宝永3)に再建され、1870年(明治3)の廃城まで残っていましたが、解体されました。現在の天守閣は1960年に鉄筋コンクリートで再建されたものです。

16:00 小田原城にて終了です。小田原駅より帰宅します。