見どころのない街道をひたすら歩き、吉田城が復元される吉田宿へ
2005年5月3日
「ツール」⇒「作図・ファイル」⇒「アイコンのラベル表示」にチェックを入れると名称が表示されます。
KMLファイルに変換することでgoogle mapへのインポートもできます。
11:30 二川宿をあとに吉田宿へ向かいます。
新町の大灯籠
今でも明かりを灯している秋葉山の常夜灯です。1805年(文化2)に吉田城の惣門の付近に建てられました。5m近いこの灯籠は当時、吉田の名物の1つになったそうです。1944年の三河地震で倒壊してしまい、戦後はしばらく放置されていましたが、1980年、地域の住民の強い要望により豊橋公園内に一度復元され、2001年に東海道宿場制度制定を記念し元あった場所付近に移設されました。山田宗?と赤穂浪士
1701年(元禄14)江戸城松之大廊下で浅野内匠頭は背後から吉良上野介(義央)に小さ刀で斬りかかりました。斬りかかった理由は不明です。幕府は浅野内匠頭に即日切腹を言いつけ、藩主を務める播州赤穂浅野家は改易、赤穂城も明け渡すよう命じます。これが元で筆頭家老である大石内蔵助は吉良邸へ討ち入りすることを決心します。一連の事件が「赤穂事件」と言われます。山田宗?は、本所に屋敷替えになった吉良義央(義央も千宗旦の弟子の一人)から、しばしば吉良邸の茶会に招かれています。そのため、赤穂浪士の大高忠雄が宗?に弟子入りし、宗?からに吉良邸で茶会が開かれる日時を聞きだし、討ち入り日を決定したのでした。情報を基に赤穂浪士四十七士が吉良邸に討ち入り、吉良上野介は斬られました。
吉田城(今橋城)
1505年(永正2)今川氏配下の牧野古白が築城したもので、本丸跡には刻印のある石垣や土塁が残っています。角櫓は昭和29年に再建されたものです。徳川家康の祖父、松平清康は1529年(享禄2)に吉田城を落とし、この戦いを契機に三河の地盤を固めました。明治維新後は解体され、1869年(明治2)吉田は豊橋と改名されました。
吉田城大手門跡
かつての吉田宿は城下町によく見られる曲がり角が多い道となっていました。このあたりの地名「曲尺手町」に名残を残しています。後ろに見えるのが、「豊橋市公会堂」です。1931年(昭和6)に建築され、外観はロマネスク様式を基調とし、スペイン風の円形ドームを有する美しい建築物です。田楽のいわれ
昔、豊作を祈って田の神に奉納した田楽舞の姿が、豆腐を串に刺し、味噌をつけた料理によく似ているため、いつからか田楽と名づけられたそうです。豆腐田楽は室町時代からあったとされています。