水の街「三島」から、ビルが立ち並ぶ狩野川沿いへ

2002年8月11日

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三島駅から前回のゴール、三嶋大社まで歩きます。

8:30 三嶋大社を出発します。今日も天気は快晴です。

問屋場跡

三島宿は箱根越えや三嶋大社の参拝客でたいへん賑わった宿場でした。

世古本陣跡

世故本陣の本陣門は、現在長円寺の山門に使われています。

樋口本陣跡

樋口本陣の本陣門は、円明寺の山門になっています。

時の鐘

三石神社内にある鐘楼です。江戸時代には、宿場の人々に明け六つ、暮れ六つの時を知らせていました。明け六つは、季節により違いますがだいだい朝の4時〜6時頃になります。現在の鐘は戦後に鋳造したものです。
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源兵衛川

富士山の伏流水が湧き出る楽寿園内小浜池を水源しています。『水の都・三島』らしさを感じられる心地よい空間です。

水の街『三島』

富士の溶岩が三島まで流れ込み、その後冷えて出来た空洞を伝い、富士の雪解け水が湧き出します。楽寿園のほか、白滝公園、菰池公園の菰池などからも綺麗な湧水が流れ出ています。昭和37年頃から水量が減少していってはいますが、今でもこんこんと湧き出しています。

秋葉神社

三島は宿場町として栄えましたが、大火事が絶えないため秋葉山より火伏せの神として名高い火之迦具土大神を勧請しました。

三島宿西見附

この石碑は広小路にありましたが、1711年〜1716年の正徳年間にこの地へ移されたそうです。

千貫樋(せんがんどい)

創設については諸説あるそうですが、1555年(天文24)、今川・武田・北条三家の和睦が成立したとき、北条氏康から今川氏真に贈り物として小浜池から長提を築き、駿河に水を疎通させた、というものが一般的です。はじめは木製でしたが、大正12年の関東大震災で崩落したため、現在の鉄筋コンクリート造となりました。この場所は土地が低くなっているため、橋の上を水が流れています。

常夜灯

1846年(弘化3)建立。西側に秋葉大権現と富士浅間宮と彫られています。向かいの旧東海道十字路にあったものが移されました。
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伏見一里塚 西塚(玉井寺)

榎が植えられていたそうですが枯れてしまい、新たな榎が植えられています。

伏見一里塚 東塚(宝池寺)

こちらの一里塚は復元と思われます。

八幡神社

源頼朝の陣営跡と言われています。対面屋敷とも双柿館とも言われていますが、元旗本、久世三四郎、安芸守広孝の陣屋の庭でもありました。

対面石

1180年(治承4)、平家の軍勢が富士川まで進出した時(富士川の合戦)、源頼朝がこの地へ出陣しました。たまたま奥州から駆けつけた義経の兄弟が対面したときに腰掛けたと伝わる石です。

松並木

近年植えたものだと思われます。

黄瀬川橋

黄瀬川は、箱根越えと足柄峠越えの分岐点としてたいへん栄えていました。
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黄瀬川

沼津は中世には「車返し」と呼ばれ、黄瀬川とともに東海道の宿場でした。そのため、周辺は源平ゆかりの地として多くの史跡があります。

亀鶴姫の碑

黄瀬川ま宿場は栄えていたため、遊女も多く、「御伽草子」では美女として『手越の千手、池田の熊野、黄瀬川の亀鶴』の名が挙がっています。源頼朝が富士の巻狩の際、招こうとしたが遊女亀鶴は応じず、入水した。あるいは工藤祐経に招かれたが曽我兄弟の復習で祐経の後を追って死んだとも言われているそうです。巻狩とは猪や鹿を大勢で四方から取り囲み、追い詰めていく狩の方法です。

沼津藩領界石

1777年(安永6)水の忠友が沼津藩主となり、翌1778年(安永7)に建立されたものです。保存状態がとても良い石柱です。

平作地蔵

創建は明らかではありませんが、有名な浄瑠璃「伊賀越道中双六」にでてくる沼津の平作にゆかりの深い地蔵尊として知られています。

『伊賀越道中双六』 

1783年(天明3)近松半二、近松加作の合作により竹本座で初演が行われた浄瑠璃。10段ある中の「沼津」は6段目。沼津の松並木で客にした縁で雲助平作は呉服屋重兵衛を我が家に泊めますが、娘お米が重兵衛の印籠を盗んだことから、親子兄妹であることを知ります。その印籠が仇、股五郎の品と知って、平作は千本松原まで重兵衛を追いかけ、一命を捨てて敵の居場所を聞きだします。

一里塚公園

玉砥石

1200〜1300年前に玉類を磨くために用いられた砥石です。柱状の石には直線的な溝があり、ここに玉の原石を入れて磨いたと考えられています。

沼津一里塚

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狩野川

広重が描いた沼津は狩野川でした。浮世絵には沼津宿の家並みが描かれていますが、今はビル群になっています。天狗の面を背負った旅人が描かれていて面白いですね。

川廓通り

かつての狩野川沿いには海運業や海産業の商家が立ち並び、城下町の中心的な通りでしたが、今はひっそりとした静かな道です。

沼津城跡

1579年(天正7)武田勝頼が「三枚橋城」として築城しました。1582年(天正10)に武田氏が滅亡するとその後は城主がコロコロ変わり、1614年(慶長19)には廃城となります。代官支配になった後、1777年(安永6)水野忠友が沼津藩主として城地を与えられると、三枚橋城を利用し、沼津城として生まれ変わりました。

城岡神社

由緒ははっきりしませんが、もともとは沼津城の二の丸だった場所に小さな祠があったそうです。幕府の老中にもなった水野忠成が、沼津城二代の城主であった頃、1824年(文政7)に社殿を造営する際に、11代将軍、徳川家斉より京都「伏見稲荷大社」のご神体を拝受しました。当時は「稲荷神社」と呼ばれていましたが、明治36年に現在の名称になったそうです。

沼津兵学校跡

明治になると沼津城は兵学校の校舎として使用されますが、間もなく廃校となり1872年(明治5)には競売され、解体されました。
ここから少し寄り道です。左に入り、「千本浜道」を通り、千本松原のほうへ行きます。

乗運寺

京都、知恩院の本寺で1580年(天正8)の開基です。境内には若山牧水の墓所があります。
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千本松原

千本公園になっています。松は千本以上あるでしょう。実際は何本あるのでしょうか・・・今は防潮堤がありますが、江戸時代にはなかったでしょうから砂浜と松林が一体となっていて、もっと美しかったでしょうね。美しい松原も戦国時代、三枚橋城をめぐって武田・北条の攻防戦が繰り広げられ、合戦の邪魔だと伐採されたそうです。合戦後、乗運寺の開基、増誉上人がお経を唱えながら松の苗を1本、1本植えたそうです。

若山牧水歌碑

『幾山河 こえさりゆかば 寂しさのはてなむ国ぞ』

牧水は、1885年(明治18)宮崎県に生まれ、早稲田大学在学中に中国路を旅し、この歌を作りました。1920年(大正9)に一家で沼津に移転し、千本松原を愛し近くに居住しました。この歌碑は全国で始めて、昭和4年に建立された牧水の歌碑です。

昭憲皇太后御座所

『くれぬまに 沼津のさとに つきにけり しばしみてこむ 海のけしきを』

昭憲皇太后は明治天皇の皇后ですが、沼津を気に入り、年に3ヶ月もの間こちらへ来られていたそうです。
11:00 沼津をでて、原宿へ向かいます。