2022年11月12日

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8:00 韮崎駅よりタクシーで祖母石の外れ、前回新府城へ曲がっていった路地までやってきました。韮崎駅からバスもありますが、時刻表を調べると時間が遅いので、タクシーにしてしまいました。2,000円程度だったと思います。

本日はここからスタートです。少し進み、国道と合流する手前、左側に石仏が祀られる一角がありました。

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九頭竜大神・石仏群

洪水が多いこの地方には、水を司る九頭竜大神が多く祀られています。
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七里岩

前回来たときよりも紅葉が進んでいます。ちょうどこの上が「新府城跡」だと思います。

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石祠

国道と平行にある甲州街道を500mほど進み、七里岩側、右手の道へ入って行くと七里岩の手前に小さな石祠がありました。そのすぐ後ろにあるのが「屏風岩と九頭竜社」で、左手のほうに見えるのが「姥母石」です。畑の中にあるので、とても目立ちます。
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屏風岩(七里岩)と九頭竜社

屏風岩は連続する七里岩の断崖から西南の方向に約40m突き出た独立岩体で、甲州道中分間延絵図にも描かれ、頂部には姥母石等集落一帯を水害から守る九頭龍神が祀られています。

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姥母石

老婆が顎を支えている姿に似ているところから「姥母石」と名付け、文字は祖母石に改め村名としました。村の発祥は定かではありませんが、慶長年間(1596〜1614)とみられ、村では1845年(弘化2)巨石の頂部に石祠を建て近くの九頭龍社と共に「提燈祭り」として例祭を執行しました。

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甲州道中分間延絵図に描かれる「屏風岩と姥母石」

絵図では「祖母石」の字が当てられています。
左手遠くの山の上に何か出っ張っているものがあるな〜と望遠で撮ってみると、鳳凰三山、地蔵岳の地蔵仏岩でした。オベリスクとも呼ばれているようです。

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地蔵岳の地蔵仏岩

地蔵岳は2764m、岩の頂上まで上っている人がいるようですね。すごいです。
姥母石から畑の中を歩いて甲州街道へ戻り、国道と並行する街道を300m、国道と合流します。国道を1.5kmほど進むと右手に「神武天皇御新田入口」と書いてある立て看板がありました。よくわかりませんが、右手へ入っていってみました。

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神武天皇御新田

立派な石碑などありますが・・・全くいわれなどの詳細がわかりません。

さらに国道となっている甲州街道を500mほど進むと、左手の工場のような場所の端に石碑があります。そのすぐ先は「穴山橋」です。

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復興之碑

1959年(昭和34)の台風7号による水害の復興碑でしょう。武田橋や穴山橋も押し流され、祖母石北の堤防は決壊し、祖母石集落では1階はすっぽり水にのまれ、500メートル下流の一ッ谷集落まで流れ込みました。さらには武田橋東側の韮崎中学校西側堤防が決壊し、韮崎町本町一帯へ濁流が流れ込む甚大な被害でした。

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釜無川

穴山橋で釜無川を渡ります。江戸時代は「穴山土橋」、通常は橋により渡り、出水により橋が流された場合は渡船により渡っていました。少々の出水でも橋が流出し、年に4.5回も架け替えられ、多い年には10回も架け直されました。1803年(享和3)に建てられた船高札場が「甲州道中分間延絵図」に描かれています。
樹齢50年〜120年の赤松が182本も植えられている「午頭島公園」でトイレに寄り、少し休憩。この松は釜無川が氾濫するたびに耕地が流されてしまうため、農民がたくさんの松を植え、水難を逃れたといいます。

午頭島公園をあとに200mほど進み、右手から旧道へ入ると「旧上円井村」です。

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上円井

旧道へ入り470m、左手の路地へ入ると突き当りの土手の上の方、大きな岩の上に小さな石祠が祀られています。

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お城(じょう)さん稲荷

江戸時代、甲府城勤めをしていたこの地の有力者である伊藤新五兵衛の後を追って、お城の稲荷神社の狐が付いてきて、ここに住み付いてしまいました。新五兵衛と村人は尊いお城のお稲荷さんの使いの狐が来てくださったのだから大切に祀ってあげようと、この丘に祠を造り「お城さん」と呼び、油揚げを供えるなどして大切にしました。狐は自然災害などの発生を鳴いて村人に知らせたといいます。

甲州街道へ戻り少し進むと左手に石柱があります。

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徳島翁のおはかみち石柱

徳嶋堰を開削した徳嶋兵左エ門俊正のお墓がある「妙浄寺」への道標になっています。なまこ壁の続くこの路地を左手へ入ると突き当りに妙浄寺があります。
今日は工事のためここは通行できないので、一本戻った路地を入り「妙浄寺」へいこうとするといたちがいました。

TOO001 見つめ合う、いたちとセキレイ。なんだか微笑ましいです。

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妙浄寺

万治年間(1658〜1661)江戸深川の徳嶋兵左エ門俊正が当地へ来て、水利事情が悪く農耕に困難している農民のため、灌漑用水堰の開発を計画し、その完成を祈念して深川の浄心寺第二世月通上人の開眼による立像の七面大明神を勧請して堰の守護神として建立し、現在でも徳嶋祈願所として祈祷が奉行されています。

境内には徳嶋兵左エ門の墓とともに徳嶋堰碑があります。

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徳嶋堰碑

日本三大堰として「箱根用水」、「柳川堰」そして「徳嶋堰」があげられてます。 徳嶋堰は取水口より、白根町曲輪田新田までの約18kmで、その灌漑面積は千ha近くあります。徳嶋兵左エ門俊正は工事の途中、突然手を引き、後の工事は甲府城代に引き継がれ、1670年(寛文10)に工事が完成しました。なぜ突然手を引いたのかは不明ですが、別の資料には「幕府の圧政」によりと記されています。何があったのかは詳しくわかりません。

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徳嶋兵左エ門の墓

徳嶋兵左エ門夫妻の墓所です。
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上円井の町並み

妙浄寺をあとに甲州街道へ戻り300m、右手に立派な旧家があり、庭の中に「明治天皇円野御小休所碑」があります。

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明治天皇円野御小休所碑

明治天皇山梨巡幸の祭、上円井で休憩されました。主屋は失われたそうですが、御座所は残っているそうです。立派な長屋門が残り往時が偲ばれます。

さらに190mほどで国道へでます。その「上円井」交差点右側に秋葉山常夜灯がぽつんとあります。

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秋葉山常夜灯

国道へ出て100mほど、左手の「上円井公園」の広場に石仏がたくさんあります。
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上円井公園の石仏

鹿嶋大神と石仏群、甲州道中分間延絵図によるとこのあたりに「天王」があったようです。その跡地ではないかと思われます。

その先、小武橋を渡りますが、その前に橋の手前右手、橋に沿ってある下の道、旧甲州街道へ入っていくと、左側に大きな「名号碑」があります。

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名号碑

旧宮脇村との境界にあるので、「境界石」と呼ばれていました。「一蓮寺法阿上人本暁書 念仏本願人宮脇村芳右衛門・上円井邨世話人・宮脇邨同・牧原邨同・黒沢邨同・新興邨同」と刻まれています。
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小武川と小武橋

小武橋を渡りすぐ右へ曲がり、宮脇集落へ向かいます。

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宮脇集落の素敵な旧家の前が災害時の避難場所になっていますが、このあたりに宮脇集落の高札場があったと思われます。
宮脇集落を抜けて黒沢川を渡り、左側に道祖神があり、国道へ出る手前の右側に「武川一里塚跡碑」がありました。

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石仏群と武川一里塚跡碑

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甲州道中分間延絵図

甲州道中分間延絵図では、牧原村の先、大武川を渡った少し先に一里塚が描かれています。石碑の位置がかなり違うようですね。なぜ違うのかは、よくわかりません。

国道を250m進むと再び右手から旧道へ入る道があります。牧原集落へ入っていきます。旧道へ入り200m、右手の道の分岐点に大きな庚申塔があり、その先130mほど右手民家の庭に題目碑があります。

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牧原下宿の庚申塔と題目碑

庚申塔には「文政五年(1822年)壬三月日 惣村中」と刻まれています。 題目碑は三千寺参詣成就と日蓮の五百遠忌を記念して、牧原村の斉木源左衛門によって1781年(天明元)に建立されたものです。

牧原

甲斐駒ヶ岳の山麓にある「牧原」は古くは「甲斐三官牧」の一つで、柏前牧と合わせて毎年30疋の駒を献上していた真衣野牧の地にあたり、地名はそこからきているものといわれています。「吾妻鏡」の1194年(建久5)の「武河御牧」はその後身とする説があります。

題目碑から170mほど進んだ右側に大きな石碑がありました。

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長坂勘三郎先生之碑

1873年(明治6)牧原で生まれたそうです。この場所が生家なのでしょうか。 北都留郡葛野尋常小学校校長、中巨摩郡視学(教育の指導監督員)を歴任しました。1924年(大正13)には北巨摩郡勢一斑(郡誌)を編纂、退職後は、武川村長、農業会長なども務めました。また「長坂桂国」を号とし俳句の作成、書道においては「武郷」の雅号で活躍しました。1949年(昭和24)没。
その先、170mくらいのところで右へ曲がると甲州道中分間延絵図に描かれている「本法寺・七面跡」と思われる一角がありました。

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本法寺・七面跡

小さな無住の堂の中を覗くと仏像が安置されています。「本法寺」の文字も見られ、今も本法寺のようです。円妙山本法寺は日蓮宗で実相寺末であり、1540年(元文9)創建、顕寿院日量の開山とされます。

少し進むと国道へぶつかります。すぐ左へ入っていくと「八幡神社」があります。

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萬霊塔・題目碑・馬頭観音

八幡宮参道の石仏です。
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八幡神社

「続日本記」によると731年(天平3)国司、田辺史広足が白髦尾(先の白いたてがみ)の神馬を献上したところ、天皇に喜ばれ庸・調(年貢)を免ぜられたといいます。国司はこれを徳とし733年(天平5)、真衣野牧の馬見丘(現在の牧原水山辺り)に社殿を造営し、男山八幡大菩薩を勧請し総鎮守としました。中世になると社殿が荒廃したので、天正年間(1573〜1592)に現在地へ移り再建されたといわれています。

このまま南へ1.5kmほど行くと神代桜で知られる「実相寺」へ行くことができます。今回は寄りませんが別の日に行ったものを掲載します。

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実相寺

1375(永和元)年に創建され、実相院日応により開山。武田信玄の時代に、武田信義の嫡男である一条治郎忠頼の城址を寄進され移転し、以来2度の火災にあい古い伽藍は焼失しています。 TOO001

実相寺のしだれ桜

身延町にある日蓮宗の総本山久遠寺にある樹齢400年の名木と知られるしだれ桜の小桜なのだそうです。ほんとうに美しい桜ですね。

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神代桜の宇宙桜

2008年(平成20)、神大桜の種を若田光一宇宙飛行士とともスペースシャトルに乗り、アメリカのNASAから宇宙に旅立ちました。約8ヶ月間無重力の中で過ごしたのち地球に戻り、その中から発芽したものが植えられています。

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蔦木氏代々の墓

蔦木氏はもとは知見寺氏と称し、代々武田家に仕えた名家で、越前守盛之の代に蔦木氏に改姓しました。盛之は実相寺を菩提寺とし、永禄年間(1558〜1570)に村内の大津から現在地に移し、代々の菩提寺としました。
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神代桜

神代桜は、樹齢2000年とも言われ、日本三大桜の一つと言われています。伝説によると、日本武尊が東国遠征された際この地に立ち寄り、 記念にこの桜を植えたと伝えられます。

八幡神社から国道へ戻り、すぐ先右手の旧道へ入っていきます。県道を越えてさらに進むと大武川にぶつかります。現在は橋がありませんので、大武橋を渡るために国道へ出ます。国道に「治水興郷」と彫られた大きな石碑があります。

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治水興郷

1959年(昭和34)8月の台風7号、さらに9月には伊勢湾台風に見舞われた水害の碑です。特に水害の中心は、韮崎市から富士川上流に集中し、大武川の氾濫では、武川村で128戸が一瞬にして濁流に飲まれ、23名の死者及び行方不明者を出したそうです。石碑の揮毫は岸信介のものです。
そのさき大武橋の手前左側に「蔦木武士君頌徳碑」があり、その奥に「九頭竜大神」が祀られてありました。

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蔦木武士君頌徳碑

蔦木武士という方の頌徳碑です。武川衆に属する甲斐の武士、蔦木盛次の末裔と思われます。元は知見寺を姓としていましたが、大坂城落城後、主命によって家名を蔦木と改めたとされます。蔦木武士氏は地域に貢献した方のようです。

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九頭竜大神

水を司る神、九頭竜大神が祀られています。おそらく1959年(昭和34)の水害後に建立されたものでしょう。傍らに水害で亡くなった方の供養塔も建立されています。
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大武橋と大武川

大武橋を渡りしばらく進むとラーメン屋さんの駐車場の一角にお墓らしきものがあり、案内板も設置されています。

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中山義基の墓

村に伝染病が蔓延したことから蘭方医になろうと備前国へ3年の修業を経て郷里へ帰る帰途、京都で宿泊していると北白川宮妃殿が重病となっているところに出会い、21日間治療にあたり全快。「法橋」の称号と白馬を賜り帰郷。その後郷里で治療にあたりましたが1846年(弘化3)24歳の若さで亡くなったとのことです。この場所に中山家があったようで、1959年(昭和34)の土石流災害により家屋、田畑を流出しこの地を離れたようです。
その先200mほどの交差点を左へ曲がり、甲州街道を離れ「万休院」へ向かいます。道なりに500mほど上っていくと「水難之碑」があり、奥に石仏群がありました。

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水難之碑

1959年(昭和34)台風7号が駿河湾から富士川を北上し、山梨県全域を襲いましたが特にこのあたりは激甚地で、前夜から崩れた黒戸山の押し出しがついに山津波となりあっという間に12名の命を奪い、堤防・道・橋・家屋67世帯、田畑を押し流しました。

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石仏群

庚申塔や供養塔が並んでいます。
万休院への参道へ入る前に、正面の水車小屋がある「水車の里公園」へ寄っていきます。

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水車小屋と武藤亜山の句碑

本名を武藤忠信といい、1890年(明治23)旧新富村三吹(現武川町下三吹)に生まれ、昭和初期は東京・大阪・関西方面で活躍し、故郷へ戻り飯田蛇笏、草の王等と活躍した俳人でした。1952年(昭和27)没。この句碑は2018年(平成30)建立。

万休院の参道を上っていきます。

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万休院庭園

舞鶴松は現在、枯山水となっている庭園に植えられていました。伐採後に庭園に作り変えられたようです。

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万休院

1571年(元亀2)竜岸寺六世利山玄益により開山、馬場氏を開基とします。
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舞鶴松

初代松は開創時からありましたが火災にあい、2代目松を植栽し樹齢450年といわれる松は1934年(昭和9)国の天然記念物に指定されました。しかし、2006年(平成18)マツクイムシの被害で枯死し、伐採されました。2008年(平成20)3代目の松として、樹齢100年の松が移植されています。

伐採された舞鶴松の根や幹が展示されている傍らに「小野松渓の碑」があります。

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小野松渓の碑

1864年(元治元)三吹村の俳人小野松渓が建てた碑があり、『長松山万休院の境内にふる松あり 通りぬけ二丁の廻り見る人に見せばや松の深みとり』と記しています。小野松渓は平右衛門武敬といい、1817年(文化14)生まれです。
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往時の舞鶴松と植え替えられた松

万休院からは駐車場を北側から抜けて、下っていきます。下の道との合流点に石仏が集められていました。

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念仏碑等

さらに北へ向かい適当に曲がりながらも北へしばらく行くと甲州街道へ戻ります。国道へ合流し、台ケ原へ向けてしばらく進み、「上三吹」交差点から右手の旧道へ入っていくと「三吹集落」になります。

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三吹集落

静かな三吹集落をしばらく進むと神明神社があります。左手の石仏は「無量院跡の石仏」です。右手には「水害記念碑」があり、奥に神明神社の小さな社があります。

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無量院跡の石仏

神明社の東には廃寺となった無量院がありました。石仏群の中に地蔵があります。「三吹村西誉和尚代建立之大願主万人講中」と刻まれています。1777年(安永6)建立です。この地蔵は、元は街道沿いにありましたが、道路工事のため現在地へ移されました。

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水害記念碑

1898年(明治31)の暴風雨により釜無川があふれ、橋を押し流し新富村三吹は家屋流出4軒、死者4名と大きな被害をうけました。1901年(明治34)建立
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神明神社

創建年月は不詳です。現在の社殿は1744年(寛保4)の建築とされ、1897年(明治30)、1983年(昭和58)に改築されています。

神明神社から120mぼ進むと右手に「三吹一里塚跡」の石柱が建っています。

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三吹一里塚跡

甲州道中分間延絵図にも描かれておらず、前の一里塚とともに往時の一里塚の位置ではないのではないかという疑問があります。分間延絵図のほうが間違えていた可能性もありますが・・・

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釜無川

甲州道中分間延絵図を描いた1806年(文化3)頃は釜無川で普請が行われていたことがわかります。堤防工事でしょうか。
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甲州道中分間延絵図

三吹一里塚跡とされる石標から150mほどで国道へ合流します。国道で尾白川を渡り、すぐ先左手から古道へ入る入口がありますが、その前にすぐ先の花水坂橋を見に行きます。

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花水坂橋

往時とは川の流れも少し変わり、橋の場所も少し違うようですが、古来より山桜の大樹が数十株あり、川を挟んで咲き乱れ水に映し出される美しさに由来するそうです。穴水橋が落ちた場合には花水坂を上り釜無川左岸へでて新府から韮崎へ出る「原路」を通行していました。
親柱には歌が彫られています。「隈なしのその川面のくまなして霞ぞわたる花水の橋 清水吉晃」

少し戻り、いよいよ古道へ入っていきます。古道へ入るとすぐ右手に「横山の道標」があります。

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古道入口

古道と呼ばれる尾白川沿いの甲州街道は未舗装で、車も通らず川と樹木に囲まれた旧道らしい道が続いています。

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横山の道標

道標は2基あり、正面に馬頭観音が刻まれています。右側の1776年(安永5)建立の道標には「右かうふみち 左はらぢ道」、左側の1463年(寛正4)建立のものには「左りはらみち」と記されています。一緒に並ぶ馬頭観音は1829年(文政12)蛭子屋儀八の建立とされます。

横山の道標のすぐ先右手の丘を上ると「無銘の巨塔」と呼ばれる大きな安山岩があります。

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無銘の巨塔

1881年(明治14)日蓮大聖人の六百遠忌に向けて長坂町日野の見法寺と白州町の蓮照寺が中心となり尾白川の対岸にある中山の「狐ん沢」より十数年かけて安山岩が運ばれました。1871年(明治4)資金難により釜無川を越えることができず、翌年にはこの石を花水橋の礎石にするよう県庁から通達がありましたが、住職により阻止され、巨石は横山の地に残されました。 計画では見性寺に運ばれてから銘を刻み、身延山七十三世日薩上人によるお題目が刻まれるはずでした。
TOO001 古道は尾白川沿いを進みます。尾白川上流は滝と淵が多く「千ヶ淵」と呼ばれるエメラルドグリーンの淵が美しい場所です。尾白川は1985年(昭和60)「日本の名水百選」に指定されています。

古道は650mで終わり、アスファルトの道へでてしまいます。もっと長く残っているといいのですが・・アスファルトの道を200mほど進むと左手にたくさんの庚申塔や馬頭観音があります。

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石仏群

大きな岩の上に祀られたものや道路沿いに並んでいるもの、近隣から集められたものでしょうか。

暫く進むと国道20号との交差点に「古道入口」と書かれた石碑があり、道祖神があった場所とされます。

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道祖神跡

1806年(文化3)の記録によれば、道祖神祭りの際には「虎頭の舞」が奉納されており、甲州道中分間延絵図に描かれている2箇所の一つがここです。
TOO001 台ヶ原宿へ入るとすぐ左手に道祖神が祀られています。この道祖神も甲州道中分間延絵図に描かれている道祖神です。

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近年の道標と馬頭観音

TOO001 台ケ原宿は古く立派な旧家が多く残っています。

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甲州道中分間延絵図「台ケ原宿」

1843年(天保14)の記録では本陣1軒、脇本陣は置かれず(絵図には描かれています)必要な場合は宿役人の中で手広な住宅を当てていました。旅籠は14軒でした。甲州街道の宿場の中でも最もよく宿場の面影を残しています。

古い町並みを進んでいくと右手に「立場跡と共同井戸跡」の案内板があり、さらに県道を越えると右手に「本陣跡」があります。

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立場跡と共同井戸跡

多くの人が集まり、井戸端会議が行われていた場所でしたが、1955年(昭和30)から白州町になり、全戸に町水道が普及したので各所にあった共同井戸は廃止されました。
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本陣跡

代々、小松家が務めていました。本陣前には大きな「秋葉大権現常夜灯」があります。台ヶ原宿が火災と水害に見舞われたことから1867年(慶応3)「秋月講」ができ、防火を祈願して本陣前に建立。その後も「秋葉講」として年々秋葉山に代参をたててきました。

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日本の道百選の碑

甲州街道の宿場の中でも最もよく宿場の面影を残している台ヶ原宿は「日本の道百選」に選ばれています。

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郷蔵跡・高札場跡

郷蔵は飢饉などの非常時のために備蓄をした蔵です。高札場は甲州道中分間延絵図を見ると街道の中央に置かれていました。

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七賢(北原家)

1750年(寛延3)信州高遠で酒造業を営んでいた北原伊兵衛光義がこの地の水質が良いことに目をつけ、分家をし「大中屋」という屋号で酒造りを始めたと伝わります。幕末には諏訪高遠藩の御用商人を務め、明治に入ると北原銀行という金融業も始め、脇本陣を兼ねていた豪商でした。1806年(文化3)の甲州道中分間延絵図で、脇本陣は街道左手なので、幕末の頃に変わったと思われます。
現在も「七賢」という酒を製造しています。

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問屋場跡

七賢の向かい、街道左手にあります。客が多いときは旅籠としても利用されていたそうです。

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北原家住宅・明治天皇菅原行在所碑

北原家は本陣ではありませんが、1880年(明治13)明治天皇山梨巡幸の際に行在所となりました。1835年(天保6)住宅を新築し、高遠城主内藤駿河守より竣工祝に、諏訪の宮大工、立川和四郎富種の作による「竹林の七賢人」の欄間を頂き、以来酒の名を「七賢」としました。

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金精軒

1902年(明治35)創業の老舗和菓子店です。信玄餅はもとより、きんつばなども有名ですが、今回は「生信玄餅」を購入しました。美味でした〜。一番食べたかったのは「水信玄餅」ですが、夏場しか売っていません。残念!
金精軒から60mほど進んだ右手が荒尾明神社家の台原家住宅、そのすぐ先が登記所跡、荒尾田中神社と続きます。

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荒尾明神社家・台原家

1700年(元禄13)に建築された立派な古民家が残されています。代々、荒尾神社の神職とのことです。

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登記所跡

1891年(明治24)開庁、はじめは籠福寺の庫裏を借りて庁舎としていましたが、その後個人宅を借りて業務を行ってきました。 1912年(大正元)庁舎が新築され業務を行い、1975年(昭和50)韮崎出張所に統合され廃所となりました。
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荒尾田中神社

荒尾神社はもと中山の麓の根古屋にありました。尾白川の氾濫により村人が台ケ原などに移り住むようになり、1910年(明治43)に台ケ原田中神社に末社を合祀、1914年(大正3)境内に遷座しました。 1652年(慶安5)から1690年(元禄3)にはお茶壺道中の宿舎に当てられました。

お茶壺道中

お茶壺道中は三代将軍家光の1633年(寛永10)から始まり、毎年4月中旬京都宇治に採茶使を派遣し将軍家御用達の新茶を茶壺に入れ、江戸へ運んだ行列です。往路は東海道でしたが、帰路は中山道を経て甲州道へ入り、谷村勝山城の茶壺蔵に収蔵し熟成後の秋に江戸城へ搬入されていました。中山道奈良井宿、下諏訪宿に逗留後、田中神社へ宿泊したと記録されています。

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虎石

虎石があるため、昔から獅子舞が村内へ入るのを禁じていたといいます。

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荒尾田中神社本殿

台ケ原宿は旧道らしい町並みが残る素敵な宿場でした。宿場だけを楽しむ観光客も多いです。
神社前の道を南へ行くと国道へでます。少し西へ向かうと「台ヶ原上」バス停があります。

14:52のバスで韮崎駅へ戻ります。この次のバスは17:42でかなり間があいていますのでご注意を。