2021年2月13日

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布田駅

11:00 布田駅を出発します。甲州街道へでるとこのあたりは布田五ケ宿の国領宿内にあたります。

さらに西へ向かい下布田宿へ入ってきます。

布田五ケ宿『下布田宿』

布田五ケ宿は、国領宿・下布田宿・上布田宿・下石原宿・上石原宿の五ケ宿で問屋業務を分担して行っていました。 下布田宿は本陣も脇本陣もありませんでしたが、中程度の旅籠が3軒あったとされます。

国領宿、下布田宿あたりも往時の面影はありません。下布田宿と上布田宿の堺あたりにあるのが「蓮慶寺」てす。

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蓮慶寺

開山は佛乗院日惺聖人、開基は小田原北条十二将の一人で布田の領主、中将出羽守です。

山門の扉には三葉葵の紋があります。慶安4年、徳川家光より御朱印地を賜り、歴代将軍の菩提を弔う御朱印地となりました。歴代将軍の位牌と香炉が現存しています。

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蓮慶寺の赤門

今は使われていませんが、赤門が残されています。御朱印地となったことで、赤門の造立と住職の乗駕籠が許されていました。

布田五ケ宿『上布田宿』

蓮慶寺を過ぎると「上布田宿」です。本陣、脇本陣はなく、小さな旅籠が1軒ありました。問屋は、加宿・小島分村とともに2箇所ありました。

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鬼太郎のポスト

調布市は、「ゲゲゲの鬼太郎」の作者である調布市名誉市民、水木しげるさんが50年以上暮らした「水木マンガの生まれた街」です。

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伊藤玄朴の案内板

伊藤玄朴は蘭方医でシーボルトの弟子、後に幕府の奥医師となりました。近藤勇が近藤周助の養子になった後、病にかかり病状が悪化し、上石原に帰ったことがあったといいます。玄朴が上布田宿へ来た時に診断、投薬したところ回復したそうです。

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布田天神参道

布田天神への参道は「天神通り」として店舗が軒を連ね、にぎやかです。
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天神通り

天神通りにも鬼太郎のキャラクターが所々で出迎えてくれます。

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布多天神社

社伝によると、平安時代に菅原氏ゆかりの広福長者が天神祈願し、布の製作技術を授けられ、早速多摩川の清流で布を晒して朝廷に献上し、それ以降この地を「調布の里」と呼ぶようになり、広福長者の子孫が菅原道真の肖像を祀ったといいます。1477年(文明9)多摩川近くから洪水を避けるために現在地へ移転しました。

また、縁起については、「新篇武蔵風土記」には疑いあり、「新記」についてはでたらめとあるそうで、真偽はわかりません。

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橘屋一家の功労碑

橘屋一家は布田五宿地域の露店商集団で、野口家が帳元を務めてきました。また、飛田給村の村役人も務めていました。布多天神で毎月25日に開かれる市に、露店を出してさまざまな生活用品を商っていました。昭和の初めごろまでは古着、古道具をはじめ、農機具、節句雛、鯉幟等が売られていたようです。

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日露戦争記念碑(中央)

碑の裏には日露戦争に従軍し戦病死した近藤勇の孫、近藤久太郎の名があります。墓は近藤勇が眠る龍源寺に一族とともに眠っています。揮毫は近藤勇が甲陽鎮撫隊を率いて甲府へ向かう途中に立ち寄り、歓待をうけた上石原宿名主、中村勘六の長男で多摩三筆に数えられた中村克昌です。

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布多天神社の狛犬

1796年(寛政8)建立、「惣氏子中」、「惣商人中」の銘があります。この頃すでに天神の市が境内で開かれていたことを物語る貴重な資料です。

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多摩川の碑(調布の碑?)

碑の名前は定まっていないようで、文献によっていろいろでした。『多麻河にさらす調布(てづくり)さらさらに・・・』万葉集の一節より始まる碑文は布多天神社の故事を伝える碑です。1846年(弘化3)国領村 松寿軒筆子中の建立で、手習いの師匠であった小林信継が撰し書いたものです。
「調布」という地名は、調(大化の改新での租税の一つ)としての布の意とされます。古代、この地方の人々は多摩川の水でさらした布を織り、税として朝廷に納めていたといいます。 TOO001

大正寺

1915年(大正4)に上布田の栄法寺、小島の不動院、下布田の宝性寺の三寺を合併、創建時の年号から大正寺と称しました。山門、本堂は北にあった栄法寺のものを現在地へ移築しています。

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布田郷学校跡

寺子屋や私塾よりも公共性の高い教育機関が郷学校でした。上布田の原豊穣の設立した育英学校を1871年(明治4)大正寺を校舎として開設しました。養豚場を経営することにより授業料は無料でしたが、この養豚場の経営が悪化したため、明治7年に閉鎖しています。
天神通りを通り、甲州街道へ戻ります。

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小島一里塚跡碑

昭和40年頃までは樹齢200年余りのエノキがあったといいます。

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醤油醸造所跡(2019解体)

創業は1883年(明治16)、1968年(昭和43)まで創業していたようですが、2019年に解体されてしまったようです。マンションが建てられるようです。見ることができず、残念です・・
下石原一丁目交差点で左へ曲がり100m、少し寄り道をします。

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鬼太郎ひろば

作品に登場する妖怪やキャラクターのオブジェ・遊具が配置され、とても楽しい公園になっています。多くの子供達で賑わっていました。
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ぬりかべ、いったんもめん

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鬼太郎の家が遊具に

家の中にはちゃぶ台があり、目玉のおやじがいますよ!

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トイレのサインは、鬼太郎、ネコ娘、目玉おやじでカワイイですね。
鬼太郎ひろばでのんびり休憩し、再び甲州街道へ戻ります。このあたりは「下石原宿」になります。

布田五ケ宿『下石原宿』

本陣、脇本陣もなく旅籠もなかったとされます。瓜が名産で、御膳瓜の上納をしていたといいます。

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常演寺

創建年代は不明ですが、良賢上人が中興したと伝わります。現在は甲州街道に面していますが、元は旧鎌倉街道辺にあったのを三代将軍徳川家光の頃、甲州街道が出来ると同時に現在地へ移転したとされます。

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下石原八幡神社

創建は太田道灌の甥で領主、太田善右衛門の祖が延宝年間(1673年?1681年)に勧請したものと伝えられています。三頭一組で舞う獅子舞は「三頭獅子舞」として知られ、調布市の指定文化財にもなっています。
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狛犬

「ゲゲゲの鬼太郎」では、布田天神の森に鬼太郎が住んでいて、この下石原八幡神社の軒下には猫娘が住んでいるという設定になっているそうですよ。

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光岳寺

門を入ると新旧2つの蓼太(りょうた)句碑があり、右が古いもので蓼太が生前に建てたものです。

蓼太は、1718年(享保3)信州の生まれで、江戸へ出て幕府御用の縫物師となり、一方、雪中庵二世史登の門に入り、33歳で三世を継ぎ、芭蕉復帰を掲げたとされます。
光岳寺の墓地には入れなかったのですが、本堂裏の墓地には江戸の儒学者「小川泰山の墓」があるらしいです。

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覚證寺

1594年(文禄3) 釋宗龍により創建、本願寺の前身、浜町御坊の末寺であり御坊内にあったようですが、明暦の大火で焼失、築地に移転、その後関東大震災による区画整理と魚河岸建設などの影響により、1929年(昭和4)調布飛田給に移転しますが、1944(昭和19)には、調布飛行場の関係で長専寺・光岳寺とともに強制移転したそうです。この時、本堂庫裏の建物は900mほど曳家で移築したそうです。曳家で900mもの長距離移動とは驚きですね。

現在の本堂庫裏の建物は平成に建て直されたもので当時の曳家建物は残っていないようです。
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水木しげる墓所

2015年にお亡くなりになりました。立派なお墓で周囲の妖怪レリーフはとても素敵です。

だいぶ遠くまできてしまいましたが、甲州街道まで500mほど戻ります。

布田五ケ宿『上石原宿』

源正寺の付近から「上石原宿」にあたります。本陣、脇本陣はなく、旅籠は4軒ありました。栗、柿、瓜が名産でした。上石原宿から布田宿あたりにかけては、毎年3月3日、児女が集まり両手に扇を持ち、調布の歌を歌って布をさらす様を見せる習俗があったといいます。

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源正寺門前の石仏

六地蔵と並んで精巧な石仏が並んでいます。供養塔は、1783年(天明3)の建立です。開基は太田道灌の弟、太田資忠の子孫、太田対馬守盛久です。

源正寺を過ぎると「上石原宿」へ入ります。

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西光寺仁王門

西光寺中興の弁雄が宝永年間(1704〜1710)に建てたと記されており、釣鐘にも弁雄の名前が記されています。釣鐘は下野国天明の鋳物師、長谷川弥市、藤原吉半、高橋想兵衛によって1717年(享保2)に制作されたものです。
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近藤勇座像

新撰組局長として知られる近藤勇は石原村の農家に生れ、天然理心流近藤周助の養子となり道場をつぎます。1863年(文久3)徳川家茂の上洛に際し、警衛のため組織された浪士隊に土方歳三、沖田総司らと参加しました。以後、京都に残留し後に京都守護職松平容保の下で新撰組となり、京都の治安維持にあたり、局長となりました。1867年(慶応3)には見廻組頭取として幕臣となります。4年鳥羽・伏見の戦の後、甲陽鎮撫隊を組織し官軍と戦いましたが、下総流山で斬首されました。

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上石原宿名主

ひときわ目を引く立派な門のお宅が名主を務めていた中村家だと思われます。

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ラグビーワールドカップのマンホール

右手奥には東京スタジアム、2019年ラグビーワールドカップが行われたスタジアムです。スタジアム通りのマンホール蓋は写真のようなデザインになっています。2020年東京オリンピックの7人制ラグビーも東京スタジアムで開催される予定でした。
15:00 布田五ケ宿は上石原宿で終わりです。このまま次の宿場「府中宿」を目指して進んでいきます。