2022年10月29日

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本日も車は甲府駅北口コインパーキングへ駐車し、中央線で塩崎駅までやってきました。

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塩崎駅

8:00 塩崎駅を出発します。甲州街道を西へ、1つ目の交差点で右折し「光照寺薬師堂」へ寄り道していきます。道なりに進むと中央線の線路を越えます。
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光照寺薬師堂入口

マンション前の細道を入ると光照寺薬師堂の参道になります。萬霊塔は1754年(宝暦4)の銘があります。

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光照寺薬師堂

1510年(永正7)武田信虎によって団子新居村から岩森村坊沢に移され、数多くの宿坊も建てられ繁栄を極めました。1582年(天正10)新府城が落城し、武田氏が滅亡した際、織田軍によって火をかけられましたがこの薬師堂だけが難を逃れたとされ、その後現在地へ移され、1665年(寛文5)住職、天海春暁は信徒と共に修復工事をし、本堂・相の間を増築したとされます。

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薬師堂の石仏

境内には多くの石仏があり、長い歴史を感じさせます。
甲州街道へ戻り、再び韮崎へ向けて進んでいきます。300mほど進むと下志田集落へ入り、右手に石仏が祀られ、往還左手には大きな旧家があります。

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下志田の道祖神・三界万霊塔

この場所は光善寺跡(興禅寺)とされます。丸形道祖神の台座には1818年(文化15)の銘があり、氏子中と刻まれています。三界万霊塔は1793年(寛政5)の建立です。

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二十二夜塔

水路にはカワニナがたくさんいました。ホタルもいるのかな
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下志田の大屋敷

この大きく立派な住宅は庄屋だったお宅だそうです。下志田には他にもナマコ壁の大豪邸もありました。

志田

志田は釜無川左岸の平坦地にあるため、水害と干ばつに苦しんだ地域です。古くは字中島付近にありましたが、水害のため現在地に移ったといわれています。 文化初年(1804年頃)の記録では家数46、人口172人、馬12疋とあり、韮崎宿の大助郷を勤めていました。

大きな庄屋であった旧家の向かいには石碑がありました。この石碑の奥には墓所があります。

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網倉輝明神道之碑(網倉輝明顕彰碑)

輝明は温厚篤実で仁慈の心に富み、貧窮者を救う慈善家であったといいます。父輝元は結党の疑いによりことがあり牢屋へ入れられますが、輝明は父を信じ絶食して神明に祈り父を救おうとし、その願いが通じました。また書画を好み、古書画を収集していたそうです。1880年(明治13)27歳の若さで没しています。

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志田の一里塚跡(推定)

現在何の痕跡も案内板もありませんが、甲州街道分間延絵図から推定すると志田村の道が折れている2箇所のちょうど中間あたりです。現在の双葉西小学校の前あたりと思われます。絵図には往還両側に一里塚が描かれていますが、木立は描かれていません。

志田の一里塚跡と推定される場所から160m、右手にどっしりした石鳥居があり、鳥居の奥に船形神社があります。

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船形神社の石鳥居

この石鳥居は「明神鳥居」といわれる形式で、「応永4(1397年)」の銘があります。側にある丸形道祖神は1790年(寛政2)建立。

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船形神社

「甲斐国誌」によると、諏訪神社はもともと釜無川沿いの「お舟石古墳」の場所にあり、その古墳の石室が崩れて船のように見えたことから「船形神社」と呼ばれるようになったと記されています。「甲州道中分間延絵図」では諏訪明神之社となっています。

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道祖神石祠

船形神社から70mほど左手に道祖神の石祠が祀られています。この道祖神は「甲州道中分間延絵図」に描かれている道祖神だと思われます。
さらに120m先右手路地へ少し入り、六反川のたもとに「芭蕉句碑」があります。

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芭蕉句碑

「ひるみれば首すじ赤き蛍かな」

1885年(明治18)に建立された碑です。また蛍の名所であったこの場所で明治時代、地元の俳人、有泉棔斎(こんさい)が「金川の流れに青き虫蛍」と詠んでいます。
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六反川

六反川は昔「金川」といい、の名所であったといいます。またこの付近には立場があったとされます。

六反川を渡りすぐの丁字路を右へ曲がり、「一橋陣屋跡」「妙善寺」へ寄り道していきます。この道は穂坂路と呼ばれ茅ヶ岳南麓の穂坂を経由し、信州峠を越え長野県川上村へ至る道の一つです。

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一橋陣屋跡

1746年(延享3)八代将軍、徳川吉宗は四男、一橋刑部郷宗尹に封地十万石を与え、この地に一橋陣屋が7年間置かれ、1753年(宝暦3)河原部村へ移りました。
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妙善寺

1378年(永和4)に臨済宗円覚寺派として開山し、天文年間(1532〜1555)から妙心寺派の寺院となりました。境内には1693年(元禄6)の「雨乞い地蔵」があるのですが、たくさんのお地蔵様があり、どのお地蔵様かわかりませんが、ひときわ立派な写真の地蔵がそうではないかと思います。干ばつが続いたときは「雨乞い地蔵」の顔に泥を塗り、大きな石の笠をかぶせると必ず雨が降ると伝えられているそうです。

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妙善寺本堂厨子

本尊である十一面千手観音菩薩を安置してあり、室町時代の様式が残されています。
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往生院板碑とカヤノキ

往生院は「屠者(としゃ)の減罪寺」(屠者・・・生物を殺さなくてはならない仕事)でしたが廃寺となり、寺跡に板碑が残されていましたが、六反川改修に伴い妙善寺へ移されました。建立は碑文から1536年(天文5)と考えられます。

カヤノキとしては屈指の大きさのもので、甲斐市の天然記念物となっています。

阿部加賀守勝宝墓は本堂裏庭の小高い丘の上にあります。

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阿部加賀守勝宝墓

中央が阿部加賀守の墓で、両側の二基は信州高遠城にて城主、仁科五郎盛信と共に死んだ息子墓で、左が長男掃部介貞直、右が次男右衛門尉道忠と伝えられています。

阿部加賀守

阿部加賀守勝宝は武田信玄の重臣使番12人衆として活躍、武田勝頼が高遠城主となった際には、補佐役として仕えました。天目山で武田氏が滅亡する際には供をし、鳥居畑の戦いにおいて討死。首は家臣、雨宮新介によって菩提寺である妙善寺へ葬られました。

甲州街道へ戻り、田畑交差点を右手へ入っていきます。道なりに450mほど進むと石仏が並んでいます。

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二十三夜塔と金剛地道標

文字が読み取れず、どれが道標であるのかわかりませんでしたが、「向左滝沢駒沢ニ通ス 滝沢青年団」とあるそうです。二十三夜塔は2基あり、小さい二十三夜塔には1836年(天保7)の銘があります。

宇津谷集落

宇津谷には「東茶屋」という立場がありましたが、現在のどのあたりなのかわかりませんでした。甲州道中分間延絵図と道が少し変わっているようです。室町時代、この地域には鋳物師が居住していたようで、釜無川の良質な川砂が鋳物の制作に適していたことによると考えられています。塩山向岳寺の銅鐘、御崎神社の鈴も宇津谷で造られたものであったとされます。

石仏前で左へ曲がり、突き当りは左へ、静かな集落が続きます。200mほど進んだ右の路地へ入り、細い坂を上っていくと「金剛地金山神社」があります。

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金剛地金山神社

武田氏配下で刀剣などを製造していた鍛冶職人の子孫である人々が氏子となっています。祭神を鍛冶の神である金山猿田彦命とし、御神体は当時使用されていたという「ふいご」です。創建年代は明らかではありませんが、天正年間(1573〜1592)と伝えられています。
甲州街道へ戻り、すぐ先を左へ進み塩川沿いの県道へでます。ここからは大きな広い道になり、塩川橋を渡ります。塩川橋を渡ると甲斐市から韮崎市へ入ります。

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塩川橋

「国志」によると増水の時には桶を浮かべて人を渡したとあります。現在の塩川橋は1975年(昭和50)に架橋されたものです。

塩川橋西詰交差点を右へ曲がり、JR中央線へ沿って進みます。徐々に繁華街になっていく韮崎への道を1.1km、日産の手前の路地を「姫宮神社」へ寄り道するために左へ曲がります。道なりに進むと姫宮神社入口があります。

姫宮神社へ入るとすぐ右手に「船山河岸の碑」があります。

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船山河岸の碑

1835年(天保6)釜無川の水を引き入れ大石をもって河岸を築いたとされます。富士川の舟運はここまで延長され、鰍沢を経て駿河へ江戸城に納める年貢米や雑穀を下げ、食塩・干し魚などを持ち帰り、峡北や信州諏訪や佐久への物資交易が行われていました。以来、韮崎は米の集積地となり馬宿として栄え、明治の頃まで利用されました。1898年(明治31)の大水害のため河岸は流出し、また国道工事のため河岸跡は大半が道路になってしまいました。
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姫宮神社

交通水路海上の守護神として1193年(建久4)相州鎌倉より勧請し創建。

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駐輦碑・鏡石

後ろにある穴の空いた「鏡石」は、富士講の信者が富士山遥拝所として1757年(宝暦7)に造立したもので、中央の穴から富士山の姿を拝したそうです。

今日は空がかすみ、残念ながら富士山は見えなかったです。
姫宮神社をあとに下宿交差点へ向かいます。交差点の左手路地に「鰍沢横丁碑」の碑があり、韮崎宿へ入っていきます。

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鰍沢横丁碑

ここから南へ行く道は「身延道」、「駿河往還」、「駿州道往還」「西郡路」ともいい、峡北地方や諏訪、佐久地方の江戸城納の年貢米を馬に積み、鰍沢河岸(幕末には船山河岸)へ至る道だったとされます。間の宿「荊沢(ばらさわ)」へは三里半の道のりです。沿道には駄菓子屋、馬方茶屋などが軒を並べて賑わっていましたが、1903年(明治36)中央線の開通により往時の賑わいはなくなってしまいました。

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大蓮寺

1586年(天正14)、現在の南アルプス市若草町鏡中条に法性房日妙上人により創建。1890年(明治23)現在地へ移転しました。
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韮崎宿

韮崎宿は甲州街道、佐久往還、駿信往還が交わる交通の要衝で、人馬の往来の激しい宿場として栄えました。 1843年(天保14)の記録によると本陣1軒、本陣に隣接して問屋1軒、脇本陣は置かれませんでしたが、差支えのある場合は手広な館を持つ宿役人住居が当てられました。また旅籠は17軒ありました。

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駒繋ぎ石

韮崎宿にはいくつか「駒繋ぎ石」が残されています。意外と小さく馬をつないでも引っ張っていってしまうのでは?と心配になる程度の大きさです。
韮崎宿の中央あたりの左手に「清水屋」という旅館があります。

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清水屋

江戸時代の1845年(弘化2)に創業した旅館です。建物は新しくなっていますが、老舗の旅籠です。
清水屋の向かいが「韮崎宿本陣跡」で、本陣東側の路地を入っていくと突き当りの公園が「一橋陣屋跡」です。

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韮崎宿本陣跡

現在は眼科になっています。往時は高遠藩、松代藩、お茶壺道中などで利用されました。

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一橋陣屋跡

一橋家は八代将軍徳川吉宗の第4子宗尹が興し、1746年(延享3)山梨に治領地を与えられ、双葉町宇津谷に最初の陣屋が置かれました。1753年(宝暦3)にこの地に陣屋を移し、その後1794年(寛政6)に静岡県に所替となったため陣屋は廃止され、再び幕府領となりました。1929年(昭和4)に建立された石碑が残るのみです。
一橋陣屋跡から北へ進むと蔵前院があります。

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蔵前院

甲州街道が整備され、韮崎宿が設けられると宿の発展のためには教化が必要と、長百姓(村役人的な人)平賀源五左衛門は所有地に寺を開き、地蔵院の本尊を移し恵運院の環室玄尊和尚が開山にあたりました。後に宝生寺の虚空蔵菩薩を本尊とし地蔵菩薩と合祀仏としました。「大寺」とも呼ばれていました。
阪急阪神創始者である小林一三は、1878年(明治11)寺子屋の名残りを留める蔵前院の公立小学韮崎学校へ入学。新校舎の完成は1880(明治13)年で、それまで蔵前院で学んでいた一三ら全校児童は新校舎に移り、翌年藤村柴朗県令(知事)を迎えて開校式が行われました。

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平和観音

このあたりからも七里岩の上にある平和観音がよく見えます。高崎白衣観音、大船観音の観音像と合わせ、関東三観音のひとつと言われています。1961年(昭和36)に建設されたものです。
甲州街道へ戻り、すぐ先本町交差点は佐久往還との追分、「韮崎追分」でした。

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韮崎追分(佐久往還)

佐久往還は信州道ともいわれ、韮崎宿と信州佐久郡を結んだ脇往還でした。釜無川が出水により橋が流出、通行不能となった場合は韮崎宿から若神子通りを廻り道し、下蔦木村へでて継立てました。
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甲州道中分間延絵図「韮崎宿」

韮崎一里塚は現在跡形もありませんが、甲州道中分間延絵図によると、雲岸寺入口のすぐ先にあったようです。

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雲岸寺

室町時代の1464年(寛正5)弘法大師遊化の遺跡として霊場窟観音を守るべく大師の法流をくむ祖慶和尚が開基した道場でしたが寺運が衰え、1615年(元和元)恵運院六世の国州天越和尚が中興。現在の本堂や庫裏は1987年(昭和58)に再建されたものです。

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日限地蔵尊

崖下の洞窟には日限地蔵が祀られています。

雲岸寺本堂横の階段から窟観音へ上ることができます。この階段は閉じられてしまうようで、窟観音を見学できるのは8:00〜17:00までと書かれています。

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窟観音(穴観音)

828年(天長5)空海(弘法大師)が平安を願い造った石像、窟観音には弘法大師自作の弘法大師御尊体像と聖観世音菩薩像の2体が安置され、江戸時代から多くの信者を集めました。

TOO001 窟観音下のトンネルには石仏が祀られています。トンネルをくぐると東側の平和観音へ向かう道へ出ることもできます。トンネルを出たところに大きな石仏がありました。

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石仏

1724年(享保9)に建立された「岩屋観世音」と庚申塔が並んでいます。
「岩屋観世音」の石碑がある場所はちょっとした公園になっていますが、ここを北へ抜け駐車場となっている場所の北側に移設された「佐久往還道標」があります。

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佐久往還道標

「右信州さくの郡みち 左信州すわ上みち」と彫られ、1695年(元禄8)の建立です。甲州街道と佐久往還の追分にあったと思われますが、現在は移設されています。
このまま七里岩東端の坂道を上っていくと平和観音前に出ます。七里岩東端上に石碑があり、ここに往時は時の鐘がありました。

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ふるさと回顧の碑(時の鐘跡)

1784年(天明4)に雲岸寺の釣鐘を15年季で借り受けたのが初めで、その後穴観音の山上に鐘楼が設けられました。

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山本周五郎文学碑

「はじめ韮崎という町に宿をとって春の来るまで付近のようすを見てまわった。そこは釜無川の東がわで・・・」と「山彦乙女」の一節が刻まれています。 甲州街道、初狩宿には「山本周五郎生誕地碑」がありました。

山本周五郎

時代劇の名手、山本周五郎は1903年(明治36)、初狩宿で生まれ、本名は清水三十六(さとむ)、1907年(明治40) 笛吹川流域を中心に大洪水があり、初狩村は壊滅的被害を受けました。周五郎一家は大月駅前に転居していたため難を逃れましたが、祖父・祖母・叔父・叔母を失っています。後に東京、横浜へ転居し様々な職業を経て1926年(大正15)、『文藝春秋』に応募した『須磨寺附近』が掲載され、文壇デビューしました。ペンネーム「山本周五郎」は当時勤務していた山本周五郎商店からきています。その後は順風満帆とはいかず、なかなかヒット作は出なかったようですが、1931年(昭和6)頃から時代小説を書くようになり、昭和11年頃には超売れっ子になったようです。1948年(昭和23)、横浜本牧の高台の景勝地、旅館「間門園」を仕事場とし、数々の名作が生まれてきましたが、1967年(昭和42)間門園で死去。1988年(昭和63)「山本周五郎賞」が新潮文芸振興会により創設されました。

11:30 七里岩をくだり、韮崎宿をあとに台ケ原宿へむかいます。韮崎宿は都市化しており、往時の面影は全くなくなっていました。