2020年11月14日

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10:30 新宿三丁目駅を出発します。甲州街道を歩く前に少し寄り道し、「花園神社」へ向かいます。

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花園神社

ビルとビルの間に参道が伸びています。

徳川氏が武蔵野国に入った1590年より前に、大和吉野山より勧請されたとされています。元は伊勢丹付近にあったといいます。
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唐獅子像

1821年(文政4)に彫工佐脇主馬の原型により、蝋型(ろうがた)鋳造の名手といわれた鋳工村田整aが鋳造したものとされ、台座は石工本橋吉平衛によるものです。

内藤トウガラシと内藤カボチャ

高遠藩主内藤家では野菜も栽培していましたが、中でも八房のトウガラシはよくでき、「内藤トウガラシ」と呼ばれ、内藤新宿では盛んに作られました。八房のトウガラシは実が上向きにつくため、畑一面が真っ赤に染まったといいます。また、カボチャの栽培も盛んで、「内藤カボチャ」「淀橋カボチャ」と呼ばれました。

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酉の市

参拝者が多いと思ったら、今日は酉の市が開催されていました。境内には商売繁盛の熊手を売る多くの露天が軒を連ね、威勢のいい声が飛んできます。年末の風物詩ですね。

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芭蕉句碑

花園神社には2基の芭蕉句碑がありますが、酉の市の小屋の奥にあり、一部しか見えない状況で残念でした。

左の句碑には『春なれや 名もなき山の 朝かすみ はせを』貞享2年(1685)、伊勢から奈良に出る途中、名もなき山に薄霞がかかって、おもわず、春だなあと詠嘆した句だといいます。

右の句碑には『蓬莱に きかばや伊勢の 初たより はせを』元禄7年(1694)元旦に深川芭蕉庵で詠んだ句で、「内藤新宿惣旅籠中」の建立

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芸能浅間神社

芝居や舞踊の興行に縁が深かったため、演劇や歌曲など芸能関係の奉納が多いそうで、周囲の玉垣には誰もが知る芸能人の名が記されています。横には宇多田ヒカルの母で歌手の藤圭子『圭子の夢は夜ひらく』の歌碑もあります。
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新宿ゴールデン街

花園神社のすぐ西側が「新宿ゴールデン街」、テレビではよく見ますが初めて来ました。細い路地に小さな飲み屋が300軒ほどあるそうです。この場所だけ昭和の薫りがプンプンします。

寄り道はここまで、甲州街道へ戻ります。

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追分だんご

1455年(康正元)に太田道灌が江戸城の築城中、武蔵野に鷹狩りに行った帰り道、高井戸で中秋の名月のもとで宴を張っていたところ、団子が献上され大いに喜んだそうです。

のちにこの団子屋は柳茶屋と号し繁盛しました。1698年(元禄11)、内藤新宿が宿駅となると柳茶屋は新宿追分に移転し「追分だんご」と呼ばれるようになったとされます。
「追分だんご」を購入する予定でしたが、長蛇の列・・・諦めて先に進みます。

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新宿追分

内藤新宿、上町のはずれで道は2つに別れていました。直進は、青梅に至る青梅街道、甲州街道は左へ折れます。「明治通り」と書いてある看板の下あたりに追分のレリーフと標柱があります。

青梅街道

関東に入った徳川氏が江戸城築城に必要な石灰を成木村(青梅市)から運ぶために開いた街道で、「御白土街道」とも呼ばれました。宿駅は、中野・田無・箱根ヶ崎で、後に内藤新宿・小川が加わりました。青梅からはさらに奥多摩を遡り、甲州都留郡鴨沢村に達しこれを「甲州裏道」といいました。

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雷電稲荷神社(稲荷ノ社)

追分の一里塚は、この付近にあったとされますが、詳しい説明が資料によりがバラバラでよくわかりません。信頼できるのは「甲州道中分間延絵図」ですが、絵図によると一里塚は東側のみで西側は描かれていません。子安稲荷と稲荷ノ社の間に東塚が描かれています。

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天龍寺

はじめは天龍川のあたりにあったようですが、後に江戸牛込に移りましたが、1683年(天和3)火災にあい、現在地へ移りました。

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天龍寺時の鐘

1767年(明和4)に多摩郡谷保の鋳物師、関孫兵衛種久の鋳造により作られ、1700年(元禄13)に常陸笠間藩主、牧野備後守貞長により寄進されたものです。内藤新宿に時を告げ、夜通し遊興する人々を追い出す合図として「追い出しの鐘」とも呼ばれていました。

天龍寺には時の鐘とともに牧野備後守貞長が寄進したとされる「やぐら時計」が残されています。制作時期は不明ですが、寄進されたのは1767年(明和4)と考えられています。

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新宿駅

2017年の記録では1日平均乗降者数は約353万人で、乗降客数が世界一多くギネス記録が認定されている駅です。

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玉川上水の記

玉川上水はほとんどが暗渠化され、公園や道路となっています。その歴史を告げるモニュメントです。

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天神橋跡

箒銀杏天満宮の近くであったことから「天神橋」の名がついたといいます。
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箒銀杏天満宮(銀杏天神社)

ここは天神様の境内でした。1900年(明治33)代々木八幡ヘ合祀されましたが、今も小さな天神様の祠が残されています。

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箒銀杏(ほうきいちょう)

樹齢300年といわれる銀杏は、箒(ほうき)を逆さにして立てたように見えることから「箒銀杏」と呼ばれています。

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諦聴寺

元は玉川上水の南、正春寺の寺域内にありましたが、後に現在地へ移りました。

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正春寺

開祖は徳川秀忠の乳母、初台局であり、湯島の専正寺を菩提寺とし、娘の梅園局もまた家光の乳母で、隠居後は正春院と名乗りました。1692年(元禄6)専正寺を正春寺と改めたとされます。

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田村成義像

1851年(嘉永4)生まれ、牢屋鍵番から職を転々とし後に弁護士となりました。その縁で歌舞伎劇場の経営者となり、後に市村座を経営して六世尾上菊五郎、中村吉右衛門らの青年俳優を養成し、「田村将軍」と異名を取ったといいます。1920年(大正9)没。正春寺の墓地内にあります。

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管野スガ墓

幸徳事件で死刑となった管野スガのお墓が正春寺にありました。正面には辞世の句『くろがねの窓にさしいる日の影の移るを守りけふも暮らしぬ 幽月女史獄中作 とし彦書』が刻まれ、裏には「革命の先駆者管野スガここにねむる」と彫られています。「とし彦」とは、社会主義者、堺利彦です。

幸徳事件

1910年(明治43)、明治政府は社会主義者が明治天皇の暗殺を企てたとし、幸徳秋水をはじめとして数百名を検挙、翌年、非公開裁判で幸徳ら24名を「大逆罪」とし、12名は無期懲役、残りの12名が死刑判決を受けました。さらに死刑判決からわずか6日後に死刑が執行されています。現在では幸徳秋水をはじめとする多数の社会主義者・無政府主義者の排除が目的の明治政府のでっちあげといわれています。
ここから少し寄り道をするため右に折れ、北へ向かいます。

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東京都庁

45階展望室は土曜日も開いていました。南北の2箇所があるようです。無料ですし、せっかくなのでエレベーターで北展望室へ登ってみました。

TOO001 無料で東京の景色を堪能できてありがたいですね〜新宿中央公園も上空から一望です。

都庁をでて、新宿中央公園へ向かいます。

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久遠の像

太田道灌の「山吹の里」の一情景を模した銅像です。1978年建立。『山吹の里』とされる場所は都内でもいくつかあり、埼玉、横浜の六浦なども候補となってるようです。

山吹の里

江戸城を築いた太田道灌が武蔵野の原(仮定)に鷹狩に出かけましたが、帰り道ににわか雨に遭い、「蓑を貸してほしい」と一軒の貧しい民家を訪ねます。出てきた若い娘は何も言わずに一枝の山吹を差し出しました。 突然の意味不明な行動をする娘に激怒して道灌はその場を立ち去ります。

後日、兼明親王の歌「七重八重 花は咲けども 山吹の 実のひとつだに なきぞかなしき」『実の=蓑』を掛けて貧しく蓑すらないことを山吹の花を差し出すことで訴えたのではないか、と知ります。 和歌の知識がなかったことで庶民の気持ちを理解できなかったと自分を恥じた道灌は歌道を志し、文武両道の武将になったといいます。

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十二社の熊野神社

室町時代の応永年間(1394〜1428年)中野長者と呼ばれた鈴木九郎が故郷である紀州の熊野三山より十二所権現を移し、祀ったものと伝えられています。
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大鳥三社狛犬

熊野神社本殿右手奥に末社の「大鳥三社」があり、狛犬があります。1727年(享保2)「角筈村上野百姓店児講中」により寄進されたもので、腹の下がくり抜かれていない珍しいものだそうです。

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大田南畝の水鉢

1820年(文政3)に奉納された水鉢で、江戸時代後期の狂歌師、大田南畝(蜀山人)の書による銘文が刻まれています。

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島川玄丈人壽兆碑

紀州徳川家の侍医で、鍼術(針治療)の大家、『島川草玄』の長寿を祝って紀州藩士川合術の撰文により1807年(文化4)に建立されました。

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十二社(じゅうにそう)の碑

「江戸繁盛記」の著者、寺門静軒と中野宝仙寺の僧、負笈(ふきゅう)道人により、景勝地として有名になった十二社の様子を紹介したもので、1851年(嘉永4)に建てられました。
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十二社の池

かつて熊野神社西側には「十二社(じゅうにそう)の池」があり、享保年間には多数の茶屋ができ、景勝地として賑わっていました。また、周囲には大滝をはじめ、6つの滝があったと伝えられています。 現在の姿からはとても想像がつきません。

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写真工業発祥の地(六桜社跡)

明治35、小西本店(現コニカ・ミノルタ)が写真感光材料の国産化を図り、研究所と工場(六桜社)を建設し、製造を始めた場所です。さらにカメラ、フィルムの国産化にも成功しました。昭和38年新宿副都心整備に伴い、八王子、日野へ移転しました。

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旧淀橋浄水場六角堂

新宿中央公園の小高い丘は「富士見台」といいます。ここにある六角堂は、明治39年から昭和2年の間に建てられた旧淀橋浄水場の四阿です。公園整備の際に残されましたが、とても綺麗に保存されています。

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旗洗池跡

後三年の役(1083〜1087年)の後、源義家(八幡太郎)が上洛の際にこのあたりを通り、この池で白旗を洗いそばの松に掛けて乾かしたという伝説があり金王八幡宮(渋谷区)にその旗が残されているといいます。

1906年(明治39)に建立された記念碑は、ここで遊んだという東郷平八郎の揮毫によるものですが、池は1963年(昭和38)に埋め立てられてしまいました。
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代右衛門橋跡・新台橋跡

玉川上水に架かっていた橋のモニュメントです。この付近の玉川上水は現在緑道となっています。

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幡ヶ谷子育地蔵

地蔵は1686年(貞享3)に造られ、周囲の低地は「地蔵窪」と呼ばれていました。往時はこの建物のすぐ前に堂がありましたが、甲州街道の拡幅に伴いコンクリート造りのお堂になりました。

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牛窪地蔵尊

以前、この付近は刑場でした。宝暦から正徳年間にかけて悪疫病が流行り、これが祟りだと噂され、1711年(正徳元)に地蔵を祀ったといいます。こちらの地蔵尊も甲州街道の拡幅に伴い、18mほど下がりコンクリート造りのお堂になりました。堂前には大乗経典十六部成就供養塔(享保9年)、庚申塔(享保9年)、道路供養塔(文化3)が並んでいます。

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清岸寺参道の石仏

マンションの中に取り込まれたような石仏は、全て破損したようですが、補修されて現在に伝えられています。庚申塔には「延宝八年」(1680)豊島郡幡ヶ谷村百姓8人の銘があります。

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清岸寺本堂

もとはこの場所には法界寺がありましたが、明治42年に清岸寺と合併し、現在は「清岸寺」です。本堂は1945年(昭和20)の空襲で焼失したため、千葉県岩井町の今村正次が建てた「岩井御殿」を昭和26年に移築したものです。

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酒呑地蔵

1708年(宝永5)に建立された地蔵は、元は地蔵橋(渋谷区本町5丁目)のたもとにありましたが、平成23年に清岸寺へ移されました。

酒呑地蔵のいわれ

昔、四谷伝馬町に住む中村瀬平という若者は家をでて、幡ヶ谷村の農家に雇われて一生懸命に働いていました。その姿に感心した村人は、正月に彼を招いてご馳走をしました。しかし普段飲まない酒に酔った瀬平は川におちて水死してしまいました。その後、村人の夢枕に現れ、お酒に苦しむ人々を救うため地蔵を作ってほしいと願ったので、村人は地蔵を建立しお祀りしてきました。

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瘡守(さかもり)稲荷神社

瘡守(かさもり)とは、疱瘡(天然痘)から人々を守るという意味です。日本でも平安時代から記録があり、何度も流行し、非情に恐ろしい病でした。

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水上忠蔵先生追慕碑

幡代小学校開校と同時に教育者として迎えられた先生を偲んで1912年(明治45)に建立された碑です。

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笹塚跡

甲州街道の南北両側に笹の茂った塚があり、一里塚ともいわれていますが、はっきりとはしないようです。

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「甲州道中分間延絵図」には一里塚が描かれ、その少し先に「宇笹塚」と書かれており、別物と考えていいようですが・・一里塚として描かれている古図もあるそうです。
16:20 京王線笹塚駅より帰宅します。寄り道で街道歩きはなかなか進みませんでしたが、楽しい一日でした。