2019年11月13日

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14:15 今日は昨日の台風でダイヤが乱れ、電車の本数も少なく日本橋まで随分と時間がかかってしまいました。台風一過でお天気はとても良く、清々しい青空が広がっています。とにかく行けるところまで行きましょう。駅はどこにでもありますので、どこでリタイヤしても安心です。

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日本橋

橋の上を首都高が走り、広重の浮世絵「日本橋」とは程遠いです。「日本橋」の文字はラストエンペラー、徳川慶喜が書いたものだそうです。
ここが甲州街道の出発点。東海道も中山道もそして日光街道も。甲州街道はここから215kmを歩きます。

『お江戸日本橋七つ立ち』

七つは現在の朝4時頃を指します。江戸時代の旅人は、朝4時頃に旅立っていました。

東海道、中山道の出発時に付近の日本国道路元標、日本橋の石碑、日本橋魚市場発祥の地などは見学しましたので、今回は割愛して、先に進むことにします。

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双十郎河岸

架橋100周年を迎える日本橋に完成した船着場に、坂田藤十郎と市川團十郎が船乗り込みを行い、記念碑セレモニーが開催されました。対岸はかつての魚河岸、その西は裏河岸、西河岸、名前のなかったこの船着場に平成23年、東西二人の名を取って「双十郎河岸」と命名されたそうです。
隣の交番のところは「晒し場(さらしば)」でした。姦通者や女犯の僧侶(戒律を破り性的関係を持つ)、心中未遂者などが晒されていました。

日本橋由来碑がある場所は高札場があり、高札には伝馬駄賃や掟などが記されていました。

さて、日本橋から先はどのような道が正解なのでしょうか・・・「甲州道中分間延絵図」は四谷大木戸から描かれており、日本橋から四谷大木戸までは描かれていません。横山吉男氏の「甲州街道を歩く」によると当初は距離も若干短く、城門も少なかった江戸城北回りだったようです。1703年(元禄16)南関東に大地震、さらに7日後に江戸城北側と東側に大火事があったため、北回りは廃止され、比較的被害の少なかった南回りが整備されたそうです。

私達も江戸城を南回りに進んでいきます。

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竹久夢二港屋跡

画家でもあり、詩人でもあった竹久夢二は1914年(大正12)この地に「港屋絵草紙店」を開き、夢二のデザインによる版画、封筒、絵葉書、手拭き、半襟などを売っていました。当時、美術家自身が作品を商品化し販売することは画期的だったといいます。
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一石橋親柱(右)と迷子しらせ石標(左)

一石橋

江戸時代初期の「武州豊島郡江戸左図」に木橋の記載がみられることから、寛永年間、あるいはその前から存在したとされています。1922年(大正11)に架け替えられた橋は、アーチ石積み、重厚な欄干と親柱、照明なども細部まで西洋的なデザインでモダンな造りでしたが、平成9年に全て架け替えられ、親柱1基だけが残されれました。 江戸時代は、別名「八つ見の橋」と言われ、橋上に立つと八つの橋を見渡せたといい、江戸の名所の一つ、広重も「八つ見の橋」を描いています。 「江戸砂子」によると、橋の北詰近くには本両替町に幕府金座御用の後藤庄三郎、南詰近くの呉服町には幕府御用呉服所の後藤縫殿助の屋敷があり、後藤をもじって五斗、後藤が二人で五斗+五斗=一石と名付けたとされます。

迷子しらせ石標

江戸後期、このあたりは盛り場で迷子も多かったといいます。この石碑は1857年(安政4)に建てられました。正面には「満よひ子の志るべ」、右に「志らす類方」、左側面「たづねる方」裏に「安政四丁巳年二月 御願済建之 西河岸町」と彫られています。左側のくぼみに迷子や尋ね人の特徴を書いた紙を貼り、通行人に心当たりがあれば右側のくぼみに貼って知らせたといいます。湯島天神の境内や浅草寺にも同様のものがありましたが、震災や戦争で破壊され、現存するものはこの一つになってしまいました。

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北町奉行所 下水溝跡

1806年(文化3)から幕末まで北町奉行所が置かれていました。南町奉行所は現在の有楽町駅前にありました。名奉行として有名な遠山左衛門尉景元は、1840年〜1843年(天保11〜14)まで執務を行っていました。平成12年の調査で、上水道や井戸、座敷境などの遺構が発見されました。

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江戸城外堀の石垣

北町奉行所の東方には1636年(寛永13)に築かれた江戸城外堀がありました。この4つ並んでいる石垣の石は鍛冶橋門(東京駅八重洲口)周辺で発見された堀石垣を使用し、積み直したものです。
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東京駅

2012年(平成24)創建当初の姿に復原された東京駅です。

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電話交換創始之地

三菱UFJ信託銀行の本店の南側の壁面に「電話交換創始の地」のプレートがあります。1890年(明治23)、「電話交換規則」が公布され、東京と横浜で交換が開始されることとなり、東京は4月、横浜は6月に電話交換事務所が設置されました。横浜にも「電話交換創始之地」があります。
行幸通りに突き当たったら濠に沿って左ですが、『将門塚』に寄るため、右に曲がります。

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将門塚

939年(天慶2) 平将門は、自らを新皇と称して反乱を起こし、翌年、藤原秀郷と平貞盛によって討たれました。首は京都で晒されますが、夜空へ舞い上がり、故郷へ向けて飛び去っていったといいます。その首が落ちた場所とされるのが将門塚です。京都で晒された首を持ち帰り葬ったのだとも伝えられています。 嘉元年間(1302?5)、将門塚周辺において天変地異が起こったため、それが将門公の祟りとして人々を恐れさせたため、真教上人が日輪寺を建立、さらに神田明神を建立しました。神田明神は、1616年(元和2)江戸城の表鬼門守護のため現在地へ移りましたが、将門塚はそのまま残されました。

首塚の祟り

関東大震災後に大蔵省が首塚を取り壊し、仮庁舎を建てた直後に大臣以下14名が死亡し、政務次官・事務次官以下多数の者が足を負傷したとされ、昭和2年に仮庁舎を取り壊し、首塚を復元しました。昭和15年、将門没後千年目には大蔵省庁舎が落雷によって全焼し、大蔵省による祭祀が執り行われました。現在の供養碑はこの時に再建されたものです。終戦後にGHQが駐車場にしようと整地を行おうとしましたが、ブルドーザー横転事故が起こり死者が出たため、首塚は保存されることになりました。かなり恐ろしい場所ですが、パワースポットであるともいいます。

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和田倉橋と和田倉門跡

1590年頃に和田倉橋が完成しますが、明暦の大火のため焼失、1661年に和田倉門と二代目和田倉橋が建造されました。関東大震災により橋も門も倒壊しましたが、1953年に三代目の和田倉橋が建造されました。しかし門は再建されずに現在は跡地となっています。
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お堀の白鳥

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和田倉門守衛所跡

大正12年、関東大震災復旧事業によりお濠を埋め立て行幸通りが建設されました。皇居の入口に当たるため、皇室の方々がお出かけの際に警備のために立っていた場所とされます。
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江戸城

天守閣は残っていませんが、中央には天守台が残っています。今回は天守台までは寄らずに先へ進んでいきます。

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和田倉噴水公園

昭和36年に昭和天皇の御結婚を記念して建設されました。いろいろなデザインの噴水があり、楽しいですね。

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桜田巽(たつみ)櫓

江戸城には、かつて19の櫓がありましたが、現在はこの桜田巽櫓と伏見櫓、富士見櫓のみが残っています。隅櫓としては唯一残っているものです。

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桔梗門(内桜田門)

江戸城本丸南口の通用門で、本丸へ向かう際には大手門と並ぶ登城の門でした。1614年(慶長19)建造、桔梗濠沿いの石垣は1620年(元和6)築造。

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坂下門

江戸城西の丸造営直後に築造され、江戸時代には木橋が架かっていましたが、現在は土橋となっています。

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正門

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夕日に輝くビル群

そろそろ日が暮れますので、この先はまた次回にしたいと思います。有楽町駅へ向かって少し戻ります。

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楠木正成像

皇居外苑にある楠木正成の像です。

1889年(明治22) 別子銅山開坑200周年事業として住友家から宮内庁に献納されものです。今にも走り出しそうな騎馬と勇猛果敢な正成の姿は素晴らしいものでした。

楠木正成

元は河内南部の土豪で、後醍醐天皇の鎌倉幕府の討伐に加わり、赤坂城、千早城で奮戦し、鎌倉幕府滅亡の中心的人物でした。建武政権の崩壊後は足利尊氏と争いますが、摂津の湊川の戦いで破れ戦死しました。南北朝時代・戦国時代・江戸時代を通じて日本史上最大の軍事的天才と評価され、また官僚・商人としても才能があったといいます。

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旧GHQ本部

「第一生命館」は、1938年(昭和13)に建設されました。1945年(昭和20)日本が戦争に負けるとマッカーサー総司令官は東京に進駐し、複数あった候補の中からこのビルを選んだといわれています。現在でもマッカーサー総司令官室が保存されているそうですが、公開はされていません。1952年(昭和27)にようやく日本は主権を回復し、第一生命館も接収を解除されました。

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帝国劇場(帝劇)

1911年(明治44)日本初の西洋式演劇劇場として建設されました。オペラや歌舞伎、シェイクスピア劇などが上演され、当時は「今日は帝劇、明日は三越」と言われました。1964年(昭和39)に解体され、現在の建物は1966年(昭和41)に落成されたものです。
17:40 あっという間に暗くなってしまいました。有楽町駅から帰宅します。あちこち寄り道し、街道歩きとしては全く進みませんでした。