2021年2月13日

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15:00 布田五ケ宿、上石原宿をあとに府中宿へ向かって進んでいきます。

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飛田給薬師堂

「飛田の原の石薬師」と呼ばれた石造りの薬師如来像が安置されています。貞享年間(1684〜1687年)に、元仙台藩士の松前意仙が出家して諸国をまわり、自ら石造の薬師如来像を彫りました。堂は1847年(弘化4)に建てられました。

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行人塚

「飛田の原の石薬師」を彫った松前意仙の入定塚です。この地に庵を結び、大願成就の後、薬師像の傍に穴を掘り中に入り、鉦をたたきながらお経を唱え、そのまま入定したといいます。意仙の死後、村人たちによって、塚が築かれました。

飛田給の地名

833年(天長10)武蔵国多摩郡と入間郡の境に悲田所(古代の貧窮者、孤児の救済施設)を設けたときの給地で、もとは「悲田給」であったものが、「悲」と「飛」が同音であったため、飛田と書き誤られたものであろうとされています。
飛田給薬師堂から左へ入っていく道が「初期甲州道中」にあたるそうです。貞享年間(1684〜88)頃までは、南を行く道が甲州街道でした。現在は「品川街道」と呼ばれているようです。

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調布市から府中市に入ります。

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白糸台の常夜灯

台座には「村内安全」、脚には「秋葉山大権現」、「諏訪大明神」、「稲荷大明神」と彫られています。1852年(嘉永5)建立。

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品川街道

常夜灯を過ぎて200mほどの路地を左に曲がり、品川街道(初期甲州道中)を横切りそのまま直進、京王線の踏切を渡るとすぐに車返諏訪神社があります。

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車返諏訪神社

新編武蔵風土記稿によると、この場所は諏訪因幡守の屋敷跡だったといい、かつて諏訪因幡守(信州高遠城主で、はじめ武蔵国に領地があった)が屋敷を構えその鬼門除けに祀ったといいます。1599年(慶長4)には、豊臣政権の五奉行の一人、浅野長政が一時隠棲し、その時家臣の平田氏が定住し諏訪神社を屋敷神として祀ったとされます。

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はけた坂

崖線を「ハケ」と呼んでいたことからこのあたりを「はけた」と呼び、坂の名前となったようです。府中崖線上の古い街道を「いききの道」(行ったり来たりする意味)と呼ばれていたそうです。

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浅野長政隠棲の地碑

碑は白糸台幼稚園の園舎前の中央にあります。中に入ることはできませんが、柵の垣間から望遠で撮影できました。白糸台幼稚園から車返諏訪神社一帯に浅野長政の元家臣、平田氏の屋敷があり、長政が隠棲していました。

浅野長政

浅野長政は、織田信長に仕え、後に豊臣秀吉に重用され若狭小浜城主となり、1592年(文禄2)の文禄の役には軍監として朝鮮にも渡っています。1593年(文禄3)には甲斐22万石に増封、豊臣家五奉行の筆頭でもありましたが、1599年(慶長4)家康暗殺計画に加わったとして、この地に隠棲していました。1600年(慶長5)の関ヶ原の戦いでは徳川方に加わり、その功により家督を譲った長子、幸長は和歌山37万石、長政は常陸(ひたち)真壁藩5万石を与えられました。
再び甲州街道へ戻り、西へ向かいます。

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観音院

甲州道中分間延絵図には、「観音寺」となっています。入口右手の庚申塔には「享保三年」と彫られています。

土方歳三の兄、良循(大作)は下染屋村の糟谷家の養子となり医者になりましたが、この良循さんのお墓が観音院墓地にあります。京都新選組屯所の看板は、兄の作であったとされています。

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下染屋碑

かつての下染屋村の中心であった付近に碑が建立されています。名の起こりは、調布(手作りの布)を染めたところであった、また鎌倉時代に染殿があったことからと言われています。

側の馬頭観音は1821年(文政4)の建立、常夜灯は1853年(嘉永6)の建立。

下染屋村の名主糟谷兵右衛門

1767年(明和4)に質屋を開業し、1827年(文政10)には近郷28ケ村、36人の送り質屋を従える元質屋に成長した豪農でした。送り質屋とは、農村では小規模なものが多く資金も少ないため、 規模の大きい質屋へ資金の融通と引き替えに質物を送るという受付機関的な役割をした質屋です。糟谷家には幕末、江川太郎左衛門が指導して作製したという木砲を所蔵しています。江川太郎左衛門は台場の砲台、韮山反射炉を建造した人物で知られます。木砲は、一揆鎮圧のために作製したといい、弾丸は粘土だといいます。

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神明社

神明社は観音院持ち、稲荷、第六天を合祀しています。秋祭りには「染殿神社御祭礼」の提灯が掲げられます。常夜灯には「文政十二年」と彫られています。
15:50 少し早いですが、今日はここまでとします。京王線武蔵野台から帰宅します。

2021年3月14日

9:45 前回帰宅した京王線武蔵野台駅よりスタートします。随分暖かくなり、青空が広がり今日は気持ちよく歩けそうです。武蔵野台駅より300mほど北へ向かい、甲州街道へでます。間もなく西武多摩川線の踏切を渡ります。この踏切の手前に立派な庚申塔があります。

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庚申塔

覆屋が無いからでしょうか、かなり彫りが傷んできていますので、出来れば早く覆屋を造ってあげてほしいですね。

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多磨霊園南参道

踏切から300mほどで「多摩霊園南参道」との交差点になります。多摩霊園は大正12年に開園された公園墓地です。有島武郎、江戸川乱歩、河合玉堂、菊池寛、北原白秋、堀辰雄、三島由紀夫、与謝野鉄幹、晶子など百基ほどの芸文家の墓地があるそうですが、少し遠いのでこのまま先に進みます。
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上染屋の観音様

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染屋不動尊

江戸時代は「玉蔵院」といい、街道の向かいにあり、染谷八幡神社の別当寺でした。

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上染屋八幡神社宝物殿

上染屋八幡神社は250m程先に参道がありますが、ここには宝物殿だけがあるようです。石碑によると「金剛阿弥陀如来立像」が納められており、この阿弥陀如来は元弘3年、鎌倉攻めのときに新田義貞軍が持ってきたものとされます。
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上染屋碑と上染屋の町並み

上染屋集落はもともと多摩川のほとり、龍ケ島・亀沢・鶴代のあたりにありましたが、度重なる洪水を避けて現在地へ移ったと言われています。調布(てづくりの布)を染めた場所だとか鎌倉時代に染殿のあった場所などと言われていますが、「染屋」の地名は南北朝時代の資料にも見られます。古くは染屋という一つの集落でしたが、いつ頃か上染屋と下染屋に別れました。

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多磨村役場跡

明治22年、押立・小田分・車返・是政・上染屋・下染屋・常久・人見の八ケ村が合併して多磨村となります。昭和29年、府中町・多磨村・西府村の一町二村が合併し府中市となり、多磨村役場はなくなり、府中市の出張所となりました。

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彦四郎塚

分倍河原の戦いなどで戦士した人の供養のため北条氏一族の子孫大久保彦四郎が 1517年(永正13)、薬師堂と住居を建立、後にこの地を去る際には所持の武具を埋めたといいますが、古墳である可能性もあるようです。
塚が造られた時期は不明のようですが、立地などから古墳よりも中・近世の塚の可能性が高いそうです。案内板などはありません。

甲州街道へ戻り、260mくらい進むと左手に「村野商店」があります。

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村野兄弟生家

現在は近代的な建物となっていますが、村野家が残っています。村野家は江戸時代から続く酒問屋でしたが、現在も酒問屋を営んでいるようです。

明治期に当主であった父、儀右衛門(代々世襲)は俳句をたしなむ人であり、子供たちは小さな時から文学に親しんでいたようで、12人兄弟のうち3人が詩人として活躍しています。次郎は北原白秋門下の詩人、三郎は西條八十門下の詩人、四郎は卒業式の定番曲「巣立ちの歌」、ドイツ語の曲を日本語詩にした「ぶんぶんぶん」などで知られています。
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上染屋八幡神社

正平11年、武蔵守新田義宗により社殿が再建されました。承応2、玉川洪水により社地が流出したため現在地へ移転しました。

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常久(つねひさ)の碑

もともとは多摩川のほとりに集落がありましたが、洪水により万治年間(1658〜1661)に現在地へ移ったとされます。古くは常久(恒久あるいは経久)という名主がいたため名がついたとされます。
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常久八幡神社

創建は不明ですが、元は多摩川のほとりにあったようですが、多摩川の洪水により常久集落が現在地へ移ったのと一緒に現在地へ移ったようです。

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常久一里塚跡

甲州街道より南へ150mほどの「品川街道」沿いにありますが、この道は「古甲州道中」で、貞享年間(1684〜1688)までは、こちらの道が「甲州道中」だったため離れた場所に一里塚が残っています。

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水道記念碑

府中市の公共下水道事業は昭和39年に着手され、昭和60年に埋設と終末処理場の完成を記念して作られたモニュメントです。

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八幡宿碑

八幡宿は「宿」と呼ばれていましたが、宿駅ではありません。現在の八幡町に集落の中心があった村落でした。村落は六所宮(大國魂神社)社領に属していました。元々八幡宿は国府八幡宮の周囲に発達した村落ですが、甲州街道の開設に伴い、街道筋に移動しました。

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武蔵国府八幡宮参道

灯籠には「国府八幡宮、文政11」の銘があります。
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武蔵国府八幡宮参道

参道に「京王競馬線」が走っています。踏切を越えると武蔵国府八幡宮です。

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武蔵国府八幡宮

聖武天皇の時代(在位724〜749年)、一国一社の八幡宮として創立したものと伝えられ、現在は大國魂神社の境外末社です。

武蔵国府八幡宮を抜けて南へ向かうと未舗装の道へ出ました。フェンスの向こうが鳩林荘でした。

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鳩林荘

大正時代に東京府知事によって茶庭として作られ、ブリジストン創業者石橋正二郎氏の所有を経て、現在は石橋財団が管理しています。普段は非公開のようです。ちらっと茅葺きの四阿が見えます。
再び甲州街道へ戻り、府中宿へ向けて進んでいきます。

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新宿(しんしゅく)碑

府中宿は、番場宿、本町、新宿の3つの集落で構成されていました。一ヶ月のうち12日を本町が努め、残りを番場宿と新宿で受け持っていました。府中宿は1843年(天保14)の記録によると、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒がありました。
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菊地稲荷のエノキ

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明治天皇行在所跡

かつて府中の大店、田中三四郎家があった場所です。田中家は江戸時代中期の創業で、様々な商品を扱い、旅籠から質屋まで営み財を成した豪商でした。
1880年(明治13)〜1884年(明治17)にかけて6回、明治天皇行在所となりました。昭和58年、行在所を解体し府中市郷土の森に移築復元しています。

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府中町道路元標

説明板によると、大正9年に設置されましたが、現在の元標は平成2年に復元したもののようです。

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大國魂(おおくにたま)神社

111年(第12代景行天皇41)に創立したと伝えられます。律令時代、国府の国司が国内の大社、六社を一所にし、勧請祭祀し、当時は武蔵総社『六所社』と称していました。
現存する本殿は1646年(正保3)の大火の後、徳川四代将軍家綱の命により1667年(寛文7)に再建されたものです。

くらやみ祭

古く武蔵国の国府で行われた国府祭が起源であり、大國魂神社の「例大祭」として知られています。昔は午後11時から午前2時まで町全体の灯りを消し、市内には神灯を灯し「提灯祭り」などとも呼ばれていました。昭和34年頃より、暗闇での神輿は危険が大きいということで時代とともに時間が変更され、暗闇ではなくなっています。
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府中小唄の碑

野口雨情により昭和4年に誕生し、府中を代表する民謡の一つとして広く市民に親しまれているということです。歌詞には六社明神、馬場大門、多摩川、分倍河原など府中の名所が歌われ、北島三郎などにも歌われているそうです。

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村野次郎歌碑

『まちに住み親しむこともなかりつる秋空はれて雁わたる見ゆ』

府中出身の詩人、村野家の3人の詩人のうち兄の次郎の句碑です。村野次郎は明治27年府中市に生まれ、大正8年、早稲田大学卒業、以後、北原白秋に師事し大正12年歌集「香蘭」を主宰、昭和54年に亡くなっています。

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宮之(みやのめ)神社

創立は大國魂神社と同じ111年であると伝えられ、古くから芸能の神、安産の神とされます。

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八朔相撲四百年記念碑

大国魂神社八朔相撲は、1590年(天正18)徳川家康の江戸入城を記念して天下泰平・五穀豊穣を祈る奉納相撲として始まりました。以後、伝統行事として毎年行われ、現在も続いているようです。

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鼓楼

慶長年間に建てられましたが、本殿と同じく正保3の大火で焼失、1854年(嘉永7)に再建されたもので、府中、日野、多摩、町田の17名によって寄進されたものです。
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中雀門と狛犬

中雀門、向かって左手の狛犬には、下染屋村の名主「下染屋村糟谷源兵衛」の名が見られます。また拝殿の天水桶には「旅籠杉嶋屋」の名があります。

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松尾神社(松尾社)

1800年(寛政12)に武蔵国の醸造家の懇請により、京都松尾神社より勧請した醸造の守護神です。
大國魂神社のトイレのところから一旦公道へ出ます。南へ向かい地獄坂を通り府中競馬場西門の方向へ向かいつつ歩いていきます。

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地獄坂

昔、この坂道は繁茂した竹や草木が覆いかぶさり、薄暗く、あたかも地獄への道のようだったといいます。別名「暗闇坂」ともいいます。
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妙光院・仁王門

859年(貞観元)創設、開山は第51代平城天皇の第三皇子、真妙法親王と伝えられます。長谷寺の直末で御朱印15石、末寺28ケ寺を有していました。その後、兵火を被り一時荒廃しましたが、1439年(永享11)宥源(ゆうげん)上人が復興し、中興の祖となりました。

仁王門と仁王像は1792年(寛政5)の建立です。明治15年の大火により本堂等は焼失しましたが、仁王門は焼失を免れました。

妙光院の門を出ると東京競馬場でした。

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東京競馬場

東京競馬場は昭和8年に目黒にあった目黒競馬場が移転したものです。

井田是政の墓

この東京競馬場の中に井田是政の墓があります。是政は畠山重忠の四男であり、1590年(天正18)小田原征伐の際、守っていた八王子城からこの地に落ち延び土着しました。元は横山村といいましたが、後に「是政村」と呼ぶようになったといいます。

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安養寺

859年(貞観元)慈覚大師により開山され、1296年(永仁4)尊海僧正により中興されました。明治維新前は大國魂神社の別当寺で14ヶ寺の末寺がありました。本堂は1789年(寛政元)の再建であり、明治初年頃まで寺子屋としても使用され、明治8年には府中学校の仮校舎にもなりました。

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上林白草居句碑

『鮎鷹に黛ひくく多摩の山 白草居』

1881年(明治14)に府中市で生まれた白草居(はくそうきょ)は、大正2年より俳句を「ホトトギス」に投稿しはじめ、大正9年より高浜虚子に師事し昭和9年に「ホトトギス」同人となります。昭和46年に亡くなっています。
もと来た道をたどり、大國魂神社方面へ戻ります。

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京所道(きょうつみち)

この道が京所(国府)の中心を通ることに由来するそうです。甲州街道が開設されるまで初期の甲州への道(古甲州街道)でした。
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武蔵国府跡

府中には古代、武蔵国府がおかれ、古代・中世を通じて武蔵国の中心地となっていました。国府はかなり広大な敷地だったと思いますが、現在のこの場所は実務的な役所である「国衙(こくが)」があったとされます。北に3kmほどの場所に「武蔵国分寺跡」があります。

「府中」という地名は「国府の中」から生まれたといいます。

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ケヤキ並木馬場寄進の碑(道標)

ケヤキ並木両側の部分がかつての馬場でした。

石碑には『従是一之鳥居迄五町余 左右慶長年中御寄附之馬場』と刻まれています。馬場は南北に500m、現在の鳥居は二の鳥居で、一の鳥居は新甲州街道との交差点「寿町一丁目」交差点付近にあったようです。かつては流鏑馬も行われていました。この碑はいつ建てられたものかは不明ですが、江戸時代後期の地誌「武蔵名所図会」には図入りで紹介されています。

府中の馬市

府中の馬市は戦国時代から江戸時代初期にかけて関東でも有数の馬市でした。5月3日の「駒くらべ」から始まり9月晦日までの5ヶ月に渡り開催されていました。

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万葉の歌碑

『武蔵野の 草は諸向き かもかくも 君がまにまに 吾は寄りにしを』 「草が風になびくよう、私は貴方にひたすら心を寄せたのに」という意味の歌です。
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馬場大門欅並木

源頼義、義家父子は奥州平定の1051年(永承6)の「前九年の役」の途次、大國魂神社に戦勝を祈願し、平定後の1062年(康平5)も参拝しケヤキの苗木1000本を寄進したのが始まりといいます。現在のケヤキ並木は1590年(天正18)徳川家康が江戸へ入り、慶長年間(1596〜1615)に二筋の馬場を寄進し、両側に土手を築いてその上にケヤキの苗木を植えました。1667年(寛文7)に老中久世大和守が府中宿大火によって焼失した六所宮(大國魂神社)の再興とともにケヤキ並木の補植も行っています。

ケヤキ並木を100mほど入り、左手の馬場北裏通りへ入っていくと約100mで称名寺の参道があります。

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称名寺

1245年(寛元3)、道阿上人一光大和尚開山の古刹です。寺伝より六孫王経基源経基 ?〜961)が武蔵介(国司の一つの役職としての「介」)であったときの館跡といわれています。

境内の銅像は、時宗の開祖一遍上人です。

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顔が刻まれたお墓

最初に見たときはちょっと怖かったのですが、野口英治氏のお顔のようです。この方は府中市陸上競技協会の前身、「青年団陸上競技部」の初代会長でご自身も陸上で活躍され、府中市のスポーツ振興に寄与した人物のようです。
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旅籠杉嶋屋と飯盛女の墓

称名寺の墓地には、旅籠杉嶋屋一族のお墓とともに飯盛女の墓とされるものが残されています。街道歩きの中で何度か飯盛女の墓とされるものがありましたが、当時は飯盛女は投げ込み寺に捨てられ無縁仏となるのが常でしたので、このように供養されているのは珍しいですね。

称名寺をあとに「馬場大門欅並木」へ戻ります。

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源義家像

源義家は、清和源氏に発する河内源氏の嫡流として7歳の時に石清水八幡宮(京都)で元服したことにより「八幡太郎」と称しましたが、「前九年の役」、「後三年の役」で武勇を顕しました。後に鎌倉幕府を開いた源頼朝や室町幕府を開いた足利尊氏などの祖先に当たります。

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高浜虚子句碑

「秋風や欅のかげに五、六人」 京洛の景色に対して関東特有の武蔵野の景色を見出そうというという趣旨で昭和5年から「武蔵野探勝」が高浜虚子と「ホトトギス」の仲間により始まりました。その第1回目の吟行地が府中武蔵国総社、大國魂神社のけやき並木でした。昭和53年建立。
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庚申堂

14:30 京王線府中駅到着です。府中市は電車の路線が色々ありますね。次回は南武線府中本町からスタートしてもいいかもしれません。