2021年11月27日

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10:40 日野駅付近のコインパーキングに車をとめて出発します。今日は秋晴れの青空、気持ちよくスタートします。

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日野駅

日野駅前の1本東側が甲州街道です。まずは甲州街道へ、現在はかなり大きな道路になっています。南へ少し進むと左手に「宝泉寺」があり宝泉寺内の墓地には井上源三郎顕彰碑と墓石があります。
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宝泉寺・時の鐘

元禄年間(1329〜31)開創、開山は建長寺59世雲芳周応と言われます。幕末までは宝泉寺の梵鐘が時の鐘となっていました。鐘は1745年(延享2)に鋳造されましたが、第二次世界大戦時に供出し現在の鐘は昭和40年に造られたものが掛けられています。幕末以降は大昌寺が時の鐘となっています。

宝泉寺の墓地には新選組六番隊長、井上源三郎の顕彰碑と墓があります。

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井上源三郎顕彰碑・墓

1829年(文政12)、八王子千人同心世話役の井上藤左衛門の三男として日野宿に生まれました。天然理心流近藤周助へ入門し、剣術を学び1863年(文久3)浪士組に加わり上京し、新選組結成後は副長助勤・六番隊長として活動しました。1868年(慶応4)鳥羽伏見の戦いで淀の千両松にて銃弾を受けて戦士しました。

宝泉寺を出て70mほど、ゆるい坂道を登っいくと右手に「飯綱権現社」その隣に日野宿、西の地蔵と呼ばれた「坂下地蔵堂」があります。

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飯綱権現社

甲州道中分間延絵図では「修検明達院」となっています。すぐ裏は中央線日野駅のホームになっています。
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坂下地蔵堂

西の地蔵とも呼ばれています。 1713年(正コ3)に江戸小舟町の井田八左衛門が釈宗威信士菩提のために造ったものです。戒名のため、どのような人か不明です。地蔵は銅造で作者は大昌寺の釣鐘・燈籠・谷戸の念仏鉦(念仏を唱える時の鐘)等を鋳造した江戸神田鍛冶町の田川民部藤原見歳です。増上寺宝物展示室入口の青銅製燈籠なども彼の作品です。

甲州街道は坂下地蔵堂からは、現在の日野駅西駐輪場あたりに真っ直ぐ進み、日野台地へ登る「大阪」を通る道でしたが、中央線の線路ができてしまったため、通行することができなくなってしまいました。日野駅交差点まで戻りJRを越え、「大阪」へ向かいます。

日野宿を過ぎれば「高倉原」と呼ばれた原野で村々の入会地や林場でした。一面の野原は八王子近くまで凡そ一里半は荒野が続いたとされます。広大な原野の中を甲州街道が一直線に伸びていました。高倉原では人家もなく、盗賊に襲われることが多かったといいます。

1723年(享保8)には幕府の命令で開墾されることになりましたが、野原も広く残ったとされます。 現在は住宅や工場が立ち並び往時の面影は全くありません。

大阪を登り800mほどで県道256号に合流し、かなり幅広の道になります。さらに100mほど右手に日野自動車本社工場があり、敷地内に「上人塚」があるらしいのですが・・

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日野自動車

上人塚が生垣の隙間からでも見えるかと注意して進みましたが、全く見ることはできませんでした。

上人塚

美濃斎藤家の落人、佐藤三郎兵衛が日野に住み着き、野武士や野盗の外敵から農民達を保護することで信頼を得て、名主に推されました。名主推薦に関する連名文を2通作成し一通をここへ埋めて榎を植え、「請人塚」と呼んでいたものが、後にたぬきかキツネに化けて上人の姿をするので、「上人塚」と呼ばれるようになったと言われます。また狼煙台に使われたという説もありますが、古墳という説が濃厚だといいます。

日野自動車を過ぎてすぐ右手に「一里塚公園」があります。

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一里塚公園

甲州道中分間延絵図には高倉原にぽつんと一里塚が描かれています。既に塚はありませんが、この公園付近にあったと思われます。一里塚の少し先の左手に「浅間之宮」が描かれています。
一里塚公園の向かいには「コニカミノルタ」、新宿中央公園にコニカミノルタにつながる小西屋(杉浦)六兵衛が設立した「六桜社跡・写真工業発祥の地」がありましたね。コニカといえばカメラと思いますが、カメラ事業からは撤退してしまったようですね。プラネタリウムが有名です。

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コニカミノルタ

コニカミノルタの敷地内に「浅間之宮(富士塚)」の塚が残っているとのことでしたが、こちらも外からでは全くわかりませんでした。
コニカミノルタを過ぎると八王子市へ入ります。

所々に旧家が残る大きな県道を進んでいきます。日野宿から横山宿の間は工場など大きな敷地の会社が多く、ほとんど開発されており、史跡などが残っている場所は少ないです。コニカミノルタから500m、右手に高倉稲荷神社がありました。

「甲州道中分間述絵図」では高倉稲荷神社の少し手前、栗須新田からようやく人家が描かれています。

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高倉稲荷神社

甲州道中分間延絵図には「稲荷」、その後ろに十王堂が描かれています。粟之須新田の鎮守で粟之須村の東福寺持であったとされます。高倉稲荷神社の少し先に高札場があったようです。

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さらに1.3kmほど見所のない、車通りの多い県道を進み国道16号の手前右手に日枝神社(山王ノ宮)の入口があります。

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日枝神社

1649年(慶安2)、徳川家光より高五石御寄進の御朱印を賜うと伝えられています。遠富士を正面に、八王子市街を一望にする高台に鎮座し、江戸の昔より甲州往還の人びとの参詣が多かったといいます。
甲州道中分間延絵図では「山王ノ宮」と記されています。その下に地蔵堂が描かれ、斜向かいに立場、その少し先に高札場が描かれています。

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女坂階段

鳥居から真っ直ぐ急な階段が男坂、その脇に少し緩く造ってあるのが女坂階段のようです。
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本殿・稲荷社

近藤勇が天然理心流の四代目を襲名したときここで奉納試合をしたと伝えられているそうです。

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東光寺

国道の工事に伴い、東へ200mほど移動しています。無住で八王子の福伝寺が管理しているとのことです。 3基の石仏のうち右手が「高幡山不動碑」で、元は甲州街道の南側、八王子往還の日野市の高幡不動へ通じる道の分岐点にあったそうです。庚申塔は甲州街道の大和田坂の坂上から稲城へ向かう道の分岐点にあったものです。左は三界萬霊塔です。

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国道16号の高架下をくぐり、70m左手に旧甲州街道が残っています。ようやく静かな道になりました。100mほど進むと左手に覆屋に収まる石仏群があります。そのすぐ先が「富士見橋」、さらに100m先の三差路のガードレールの裏に道標がありました。

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石仏群

左手に大小2つの道標があります。大きな道標には、「八王子・新田日野東京」、「堀之内高幡方面」、「大正十五年四月 小宮村青年團大和田支部」とあり、小さな道標には、「下大和田平通り大和田」、「豊田高幡・八王子」、「堀之内高幡方面」、建立年・建立者は同じです。移設された道標のようで、元はどこにあったのかは不明です。

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富士見橋

以前はここから富士山が見えたのでしょうか。今は建物で遮られ見えませんね。

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道標

折れてボロボロの道標は「大和田〇〇方面」、「八王子日野」と一部は読めます。この道標は元々ここにあったようです。 「○年 大和田青年部」もかろうじて読めますので、先程の大小2つの道標と同じ頃に建てられたものでしょう。
道標のすぐ先、浅川を渡る「大和田橋」を通過します。

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大和田橋

江戸時代夏場は徒渡り、冬は仮土橋でした。1905年(明治38)に始めて木造橋が常設され、昭和2年にコンクリート橋となりました。

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大和田刑場跡

主に多摩地方の罪人を処刑していた場所とされています。近年は製紙工場になっていたようですが、事故が相次ぎ「南妙法蓮華経」と刻まれた慰霊碑が昭和29年に建立されました。現在は製紙工場が無くなり、巨大なマンションが建設され慰霊碑も撤去されたそうです。

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焼夷弾被弾跡

昭和20年8月2日、B29、180機の空襲をうけ旧市街地の80%を焼失する被害を受けました。このとき多くの市民がこの大和田橋の下に避難し、助かったとされます。大和田橋にはこのとき落下された焼夷弾の跡が17箇所残っています。透明板で覆われているものが2箇所、他はカラータイルで表示されていますが、透明板の中に水が入り全く見えません。
大和田橋を渡りすぐに右折、現在の北大通りを通り350m、第五中学校脇から斜め左手へ入る道が旧甲州街道です。160m先右手の竹の花公園前に「竹の鼻一里塚跡碑」、そのすぐ隣が永福稲荷神社で境内に芭蕉句碑や八光山権五郎像、庚申塔などがあります。

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竹の鼻一里塚跡

一里塚は八王子横山十五宿の入口にあったとされます。1897年(明治30)の八王子火災で焼かれるまでは大榎があり往時を忍ばせていたそうですが、現在は碑があるのみで残ってはいません。

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永福稲荷神社

八王子宿の入口に永福稲荷神社があります。新編武蔵風土記稿には「社地10坪、家福稲荷と号する 1756年(宝暦6)力士八光山権五郎の初願により勧請、元横山村 大義寺持」とあります。落成と同日に相撲を奉納したとされます。

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八光山権五郎像

江戸時代中期(寛延・宝暦)に活躍した八王子出身の力士です。嶋屋という絹問屋の跡継ぎで商売をしながら相撲をとっていたといいます。番付にはなぜか出身地が「江戸」となっているようです。
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神廟碑・庚申塔

庚申塔には「享保八年」(1723年)の銘が入っています。

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芭蕉句碑(日影塚)

『蝶のとぶばかり野中の日かげかな』

最初の碑は榎本星布尼(松原庵星布)が1799年(寛政11)に建てましたが、明治30年の大火で失われ、1949年(昭和24)に再建されました。
永福稲荷神社の先はすぐT字路でここが枡形でした。ここを左へ曲がり250m、国道20号の八王子駅入口東の交差点を右ですが、その前に子安神社へ向かうため左へ曲がります。国道20号側の裏口より子安神社へ入ります。

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子安神社の金毘羅社と葦船社

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子安神社本殿

759年(天平宝字3) 橘右京少輔が時の天皇のお后さまの安産祈願のために創建したと伝えられています。源義家が奥州下降の際には戦勝を祈念して欅(けやき)を船形に植樹しており、欅はやがて森となり、隣接する船森公園や船森保育園等、現在に至るまで「船森」という名で地名として残っています。 徳川家光以降朱印を受けており、三つ葉葵が御紋となっています。

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子安神社の湧水と山口誓子句碑

子安神社の湧水は「大明神の池」と呼ばれ、常に豊富な水をたたえ涼を求める人々の憩いの場となっていました。

『湧き出づる 清水も産みの 安らかに 山口誓子』

古来より こんこんと湧き出る子安神社の神池の真清水を「底の抜け柄杓」で汲めば安産となるという御神徳を称えた歌です 子安神社の湧水が流れ出た小川には水車が廻り撚糸や精米に利用されていました。織物工場や織染学校、繊維試験場が立地し八王子織物の礎を築きました。

山口誓子

女性のようなお名前ですが、男性です。1901年(明治34)、京都生まれ。東京帝国大学法学部に入学後、東大俳句会に加わり高浜虚子に指導を受けました。大正15年大学を卒業後は大阪住友合資会社に入社しますが、胸部疾患のため昭和15年に退社し執筆活動に専念します。 「ホトトギス」、「馬酔木」などで活躍し、昭和23年には自身の主宰誌「天狼」を創刊し戦後の俳句会に多大な貢献をしたとされます。1994年(平成6)に亡くなっています。

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子安神社正面入口

子安神社隣の福伝寺には、清水寺がありましたが、1949年(昭和24)に福伝寺がその跡に移転してきています。

南側の正面入口から子安神社をあとにし、隣の福伝寺前を通り「八王子駅入口東」交差点まで戻ります。すぐ先右手が「市守大鳥神社」です。

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市守大鳥神社

1590年(天正18) 横山・八幡・八日市の3宿の商人の守り神として長田作左衛門が祀ったものが始まりだといいます。11月には大酉祭で賑わい、「お酉さま」として知られます。 かつてはこの前に木戸があり、八王子宿が始まりました。

長田作左衛門

元は北条氏照の家臣でしたが、八王子城落城後に前田利家に起用され、大久保長安の指揮に従って八王子宿の開設に尽力した人物です。八王子宿の初代名主となり現在の横山町郵便局付近に邸宅を構えていたといわれています。

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八王子十五宿

八王子宿は『八王子十五宿』、『八王子横山十五宿』とも呼ばれ、横山宿・八日市宿を中心に15の宿場が集まった大都会でした。

13:30 市守大鳥神社を出るとすぐ先が「八王子駅入口」の交差点です。次回、『八王子十五宿』を散策します。本日はここまで、八王子駅へ向かい日野駅まで電車移動、日野駅近くに駐車している車で帰宅します。

日野宿から八王子宿までの間は「高倉原」で開発がされていなかったからか、大きな敷地の工場が多くありました。史跡も少なく、楽しい道のりとは言えないですね。