2021年4月10日

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11:20 府中本町駅から出発します。府中本町駅を東から出るとすぐに「武蔵国府跡」があり、広い公園になっています。

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武蔵国府跡

飛鳥から奈良時代のはじめ頃から(7世紀末〜8世紀初頭)平安時代の終わり頃(11世紀代)にかけて武蔵国を治めた行政府があった場所です。政治・経済・文化の中心地として栄え、一帯は国府でしたが、この場所は国司館(現代の知事公館)がありました。
1590年(天正18)にはこの場所に府中御殿が造営され、徳川家康、秀忠、家光の三代に渡り鷹狩の宿舎として使われ、1617年(元和3)には家康の御霊を久能山より日光へ移葬される際には逗留、法要の場ともなりました。

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国司館復元模型

1/10サイズで復元、国司が赴任したときの儀式が行われている様子を再現しています。

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府中御殿井戸跡

家康が造った府中御殿の井戸で、今は埋め戻され地下に保存されています。井戸内からは三つ葉葵紋がついた鬼瓦も見つかっています。

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大國魂神社

武蔵国府跡をでるとすぐ右手に大國魂神社があります。大國魂神社は前回寄りましたので、通過して大國魂神社西側の道を甲州街道へ向かって進んでいきます。
甲州街道へ出る一つ前の路地を左へ折れると右手に「野口仮屋」があり、案内板もありますがほとんど読むことができません。

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野口仮屋

昔、大國魂神が府中に降臨した際に、野口家が宿を提供したという古事にならい、例大祭には「野口仮屋の儀」が行われます。宮司を含め神職一同が仮屋の主人野口氏より古式に従った接待を受けるものです。

野口仮屋を見学後は路地を北へ向かい、ようやく甲州街道へ戻ってきました。甲州街道を西へ向かうとすぐ右手に「四人部屋跡」の標柱があります。

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旅籠四人部屋跡

学のある風流人として江戸でも知られていた野村瓜州が主人でした。瓜州は1736年(元文元)生まれで通称を六郎右衛門といい、彼のもとへ和歌や狂歌、俳諧を好む文化人が集まってきました。
若き日の大田南畝も友人3人と四人部屋に宿泊しています。1767年(明和4)大田南畝が記した「三餐余興」にも四人部屋が登場しています。

さらに80mほど進むと府中市役所前の大きな交差点左手角が「御旅所・高札場跡」、右手が「府中宿問屋場跡」です。

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御旅所・高札場跡

ここは「札の辻」と呼ばれ、甲州街道川越街道及び相州街道が交差する府中宿の中心地でした。川越街道は青梅街道の多摩郡小川村からさらに北の入間郡所沢町、川越城下町へ至る道でした。

現在の高札場は江戸時代後期から末期にかけて造られたと推定されています。高札場の裏は大國魂神社の御旅所となっています。

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府中宿問屋場跡

高札場の向かい、中久本店が問屋でした。中久本店の西側を北へ入る路地がかつての鎌倉街道(小田原道)だったとされます。
「御旅所」の交差点を左へ40m、村上医院がある場所がかつての「飯盛旅籠田中屋」でした。

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飯盛旅籠田中屋跡

府中宿の飯盛旅籠は1830年(文政13)頃には田中屋、富久本屋、東屋、杉島屋、富岡屋、津多屋、金本屋、増田屋など8軒があったといいます。
そのまま南へ向かい「善明寺」へ寄っていきます。

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善明寺・府中小唄歌碑

江戸時代中期の1744年(延享元)、神学者依田伊織が、天台宗安養寺末寺の善明寺を、現在地に移転、諸堂を造立したもので、「伊織屋敷」とも呼ばれていました。。寺宝としては、刀鍛冶、藤原助近作の「大鉄仏阿弥陀如来坐像」及びその胎内仏とされる「小鉄仏阿弥陀如来立像」が安置されています。共に国指定の重要文化財です。

府中小唄

昭和4年に誕生して以来、市民に親しまれている「府中小唄」の歌詞が刻まれた石碑が府中小唄のゆかりの場所6か所に設置されています。ここには、善明寺の金仏さまが登場する4番の石碑があります。

府中小唄4番歌詞:♪ハァ、恋のかけ橋 金仏さまもヨ ひとり渡りは ササラサイサイ ひとり渡りは なさりゃせぬ あれは身ごもり 金仏さん 身重がわるけりゃ お詫びする サアサ ヤッサキタ ササラ サイサイ

善明寺の駐車場の一角に「西園寺実満の墓」と「依田伊織の墓」が残っています。

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西園寺実満墓

勤王の志士、西園寺実満の墓は墓碑に「西園寺」と読め、わかりやすいです。

西園寺実満

西園寺実満は1843年(天保14)京都の公家西園寺家に生まれました。高安寺に眠る木曽源太郎とは親しい間柄であり、共に国事に奔走した勤皇の志士でした。1863年(文久3)の生野の変(尊皇攘夷派が但馬生野に挙兵し生野代官所を占拠した事件)には源太郎と共に参加、明治維新後は一時太政官に出仕し、国学、漢学、詩歌に長じ、書も優れていたため、神田一ツ橋に温和学堂を開き、門弟の教育にあたりました。姪が善明寺の室(妻?)であったため、老後はここで過ごし1918年(大正7)74歳で亡くなりました。

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依田伊織(定右衛門・依田貞鎮)墓

どのお墓が依田伊織のものか不明でしたが、側面に「五十嵐、依田」という文字が見えますので、恐らくこのお墓だと思います。

依田伊織

1681年(天和元)府中本町の旧家に生まれ、本名は五十嵐貞鎮(さだかね)通称を定右衛門、後に?無為と称しました。神道・儒教・仏教の三教一致を説いた大成教を信仰し、その研究と普及に務め、「本紀筏」など百数十巻の著作を残しています。1744年(延享元)には府中本町の屋敷を提供して善明寺を改修しました。1764年(明和元)上野谷中で病死し善明寺に葬られました。

北側の公園を通りすぐに左、70mほど左手の赤い屋根の小さな門をくぐり「花蔵院」へ。

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花蔵院

開山は不詳ですが、1537年(天文6)阿闍梨祐秀によって中興されたといいます。その後、1705年、法印宥盛が再興、1863年(文久3)下河原の火災で山門などを焼失。翌元1864年(元治元)に再建されました。江戸時代から府中の商工の職人たちが太子講を組織した名残で太子堂が残っています。

花蔵院から甲州街道へ戻ります。

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土蔵を改装した家

甲州街道へ戻り街道を突き抜け少し北へ入ると右手に古木、向かいに稲荷神社があります。

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矢島家のナツメ

「府中の名木百選」に指定されています。まだ全く葉がついていないですね。ナツメは葉がでるのが遅いのかな
甲州街道へ戻るとすぐ右手に番場公園、公園入口に「番場宿跡」の石碑があります。

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番場宿跡

府中宿は3宿で構成され、東から新宿・本町・番場宿となっており、ここは最後の番場宿の中心地でした。宿継ぎは上十日、下十日を本町と番場宿で務め中十日を新宿が務めていました。

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脇本陣・問屋跡

現在お蕎麦屋さんのあたりが、脇本陣・問屋跡のようです。府中宿には本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠29軒がありました。
このすぐ先を右へ入ると「長福寺」です。花光房長弁の「私案抄」によると『1230年(寛喜2)創建、勝宝寺と称し、1289年(正応2)遊行二祖・真教上人(他阿弥陀仏)の武蔵巡化の際に時宗に転じた』とありますが、正応年中の真教上人は一遍上人と共に阿波に巡教しており、北関東を遊行していた正安2年の誤りとされます。

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鹿島坂

大国魂神社の例大祭「国造代奉弊式」という古式を鹿島田家が担っていたことからこの名が付いているそうです。当初は「鹿島田坂」と呼ばれていましたが、後に「鹿島坂」となったようです。
鹿島坂の案内板ある辺りは現在緑道になっていますが、以前は武蔵野線の支線である下河原線が走っていた跡です。国分寺駅から東京競馬場までを繋いでいたことから東京競馬場線とも言われていたようです。1976年(昭和51)に完全に廃線となり、緑道として整備されました。

その先すぐ左手に高安寺の入口があります。高安寺に寄っていきます。

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高安寺

平将門を征伐したことで知られる藤原秀郷が武蔵の守となったときの館跡といわれ、当初は「市川山見性寺」として建立されましたが、足利尊氏が征夷大将軍となると安国利生の祈願所として龍門山高安護国禅寺を暦應年間(1338〜1342)に再建、大徹心悟禅師の開山でした。

往時は大伽藍で塔頭(たっちゅう)10院、末寺75院、寺領も広大だったとされます。戦国時代にはしばしば将軍家の陣所となり、北条氏の庇護もありましたが衰退していきました。慶長年間に青梅の海禅寺第七世関州徳光禅師により中興され今日へ至ります。

立派な山門は1857〜1872(安政4〜明治5)にかけて、時の住職哲苗により建立されました。両脇には仁王像が安置されています。

山門をくぐりすぐ左手の小さな石碑が「宮崎素洲句碑」です。

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宮崎素洲句碑

『秋晩き日が禅林の石に沁む 素洲』 

昭和50年、府中市俳句連盟により建立。宮崎素洲氏がどのような方なのか詳しくはわかりませんが、府中市出身の俳人だと思います。
左手の高安寺墓地に入りすぐにあるのが「高林吉利の墓」、さらに観音堂の方へ向かい奥にあるのが「野村瓜州の墓」、更に西側の本堂方面へ向かうと左手に大きな「木曾源太郎墓」、さらに西へ向かうと「秀郷稲荷」、そしてその奥が「弁慶硯の井戸」となっています。

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高林吉利の墓

高林市左衛門吉利は、徳川家康 に仕え、武蔵国府中最初の代官です。1592年(文禄元)、旧押立村と常久村の大半を知行地として与えられ、翌文禄2年72歳で没しました。高林氏による押立・常久両村の支配は、その後吉次−利春−利之と4代続き、1697年(元禄10)まで100年余に渡りました。

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野村瓜州(びしゅう)の墓

府中宿の旅籠四人部屋の主人が野村瓜州でした。学のある風流人として高名で、和歌や狂歌、俳句などを好み旅籠四人部屋には文化人が集いました。墓碑の撰文は大田南畝が手掛けました。
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本堂と時の鐘

時の鐘は、谷保の「かなや」親子が1858年(安政5)に鋳造したものです。

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木曾源太郎墓

木曽義仲25代目末裔とされ、1839年(天保10)に生まれますが、幼くして孤児となり、熊本藩、林桜園について諸子百家(中国の学者・学派)の書を学び、後に平田篤胤(あつたね)、鈴木重胤(しげたね)らについて国学を修め兵学の研究に専念します。
安政末頃に上京し西園寺実満とともに皇権の回復を画策する勤王の志士となり倒幕運動に身を投じ旭健と名乗りました。丹波生野に挙兵し、総指揮をとり代官所を占領しましたが幕府軍に鎮圧され長州へ逃れました。

明治維新後は伊勢度会府(わたらいふ・三重県の一部)の判事に任ぜられ、宮司を歴任しました。晩年は府中に隠棲し1918年(大正7)80歳で死去しました。

さらに西へ進むと奥には「秀郷稲荷」があり、藤原秀郷が祀られています。「秀郷稲荷」前を右手に曲がり、細い坂道を下ると「弁慶硯の井戸」があります。

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弁慶硯の井戸

源義経は兄、頼朝の怒りに触れ鎌倉の手前である腰越まで来ましたが、鎌倉入は許されませんでした。やむなく京都まで戻る途中、しばらく見性寺に身を寄せ、弁慶らは赦免祈願のため写経をしたとされます。その際に裏山より清水を汲み取ったと伝えられます。
高安寺は広いお寺でした。先程入ってきた山門から甲州街道へ戻り、再び日野宿へ向かって歩いていきます。参道入口から50m右側に「片町碑」があります。

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片町碑

家康が江戸へ入封後整備された甲州街道沿いにできた街で、街道の南側が高安寺で北側だけに集落ができたことから「片町」となったといいます。国府が置かれた古代の住居跡も数多く発掘されています。
更に50m左手に「弁慶坂」の案内板。その先140mほどの交差点右手に「石橋供養塔」、向かいに「棒屋の坂」の案内板があります。

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弁慶坂

高安寺に伝わる弁慶の伝説に由来します。「江戸名所図会」には「甲州街道に架する所の橋を弁慶橋と号け、東の坂を弁慶橋と呼べり」とあります。
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石橋供養塔・棒屋の坂

野川に架かる弁慶橋のたもとにあった石橋供養塔と解説がありますが、分間延絵図では「観音堂土橋」となっています。明治4年建立。「願主 関口勘右衛門」と刻まれています。

坂を下りきった場所に屋号「棒屋」があったため「棒屋の坂」と呼ばれていました。徳川家康によって甲州街道が整備される以前はもっと南寄りの狭いハケ道を通っており、今でも所々残っており往時の面影が残っているようです。

少し戻って左折し、分倍河原駅方面へ寄り道していきます。分倍河原駅前のバスターミナルに「新田義貞公之像」がありました。

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新田義貞公之像

鎌倉時代後期の1333年(元弘3)、新田義貞は、鎌倉幕府を討幕すべく兵を挙げ幕府軍を打ち破りながら南下します。分倍河原の地では北条泰家(北条高時の弟)率いる幕府軍が迎え撃ち、新田軍を退却させることに成功します。
しかし、三浦義勝をはじめとする相模国の豪族の援軍を得た新田軍は、翌日急襲、北条軍は壊滅的な打撃を受ました。この分倍河原で北条軍を破った新田軍は一路鎌倉へ向けて南下、鎌倉幕府滅亡へと向かっていったのです。

かつての鎌倉街道を通り、「分梅碑」がある分倍の中心地まで行ってみます。

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石橋供養塔・光明院坂

慶應4年建立、常久邑(村)、願主、関田勘右衛門、世話人、分梅中」と彫られています。勇○という人の短歌が刻まれていますが・・達筆すぎてなんと書いてあるのかわかりません・・・

光明院坂は鎌倉街道であると案内板には書いてありますが、別名を「根ツ子坂」ともいわれ、以前道が荒れていた頃道の両側に木の根がわだかまっていたことによると言われています。

市川(府中用水)には光明橋が架かっていました。市川の流れは美しく、小魚の種類は豊富で夏には蛍の名所であったそうです。

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分梅碑

ここは鎌倉街道にあたり、往時から集落の中心でした。もとはハケ上の上分梅の八雲神社あたりに集落の中心がありましたが、多摩川の流れが南へ変わり、分倍河原に進出したと言われます。古くは「分倍」、「分配」の字が当てられていましたが、近世では「分梅」が多用されています。

江戸初期の甲州街道

江戸初期の甲州街道は大国魂神社から府中本町駅を越え、鎌倉街道を進み分梅駐在所で鎌倉街道と分かれ、 御猟場道を西へ進んでいました。この分梅碑から御猟場道へ入り800mほど進むとNECの工場があり、工場内に「本宿一里塚」があります。谷保天満宮へ向かい、万願寺一里塚へ、日野警察署へ至り、享保以降の甲州街道と合流し日野宿へ入っていました。

江戸初期の甲州街道もいずれ歩いてみたいと思います。

分梅碑から甲州街道へ戻るため、光明院坂を北へ向かいます。すぐ右手に「光明院」、南武線の踏切を越えるとすぐ左手に「天王宮八雲神社」があります。

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光明院・陣街道

創建年は不詳ですが、1316年(正和5)北条氏の家臣、肥後守義継が分倍河原の戦場での戦没者の供養塔を作り天正年間(1573〜92)に祐秀を中興開山として再興されたといいます。

光明院の前の道は、中世には軍勢が陣立てして往来したことから「陣街道」と呼ばれていました。鎌倉街道、浅間道、分倍道の別名があります。

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江戸名所図会に描かれた『陣街道・分倍』

中央に描かれるのが陣街道、「天王森」とあるのが天王宮八雲神社、石碑のようなものは「元応の板碑」でしょうか。右手に描かれている「首塚」は浅間神社から右へ曲がり100mほどの場所に「首塚古墳」として残っています。

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天王宮八雲神社・元応の板碑

古くは天王宮と呼ばれていましたが、創建は不明です。境内の東北隅には1319年(元応元)の大木に抱かれた石板碑が残ることからそれ以前から存在していたと思われます。

現在置かれている「元応の板碑」は複製されたものです。1319年(元応元)大蔵近之という人物が亡き父親、道仏の17年忌追悼供養のために建立したものと考えられています。本物はどこかの博物館に保管されているのか・・調べてみましたがどこにあるのかは不明でした。

さらに150m左手に小さな浅間神社があり、門前に「屋敷分の碑」、「庚申塔」があります。

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屋敷分の碑

元はかなり南にあった村は甲州街道の開設後に現在地へ集落が移動しました。地名の起こりは国府時代の国衙(こくが)の在庁官人でその後、六所宮の社家(神官)となった鹿島田・佐野・中善寺氏などの屋敷があったことによるとされます。
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浅間神社・庚申塔

浅間神社前の庚申塔は1674年(延宝2)建立、府中市内では最も古い庚申塔です。一時府中市郷土館に移されましたが、平成13年に元の浅間神社へ戻されました。

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浅間横丁の碑

浅間神社の横を通る道が「浅間横丁」と呼ばれていました。この道は耳塚あたりまでしかありませんでしたが、昭和41年に清水坂道(七生道)まで延長されました。
浅間神社から170m、ようやく甲州街道へ戻ってきました。再び日野宿へ向かい進んでいきます。150m左手に立派な旧家が見えてきます。

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矢島本陣移築門

内藤家は代々このあたりの連合名主を務めたという古くからの家柄で、大きな冠木門は矢島本陣の門を移築したものです。内藤家の向かいに高札場があったそうです。
500mほど進むと左手、交番横に本宿村の常夜燈があります。常夜灯の交差点からは「西府町湧水」へ寄っていきたいため、またまた甲州街道を離れ、100mほど南下すると左手に「西府村役場跡」の石碑がありました。

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本宿村 常夜燈・西府村役場跡

度重なる火災のため、本宿村では「講」を作り遠江(とおとうみ、現在の静岡)の秋葉神社で火伏せの祈願をし、1792年(寛政4)常夜灯を設けました。村内に「番帖」を廻し受領者は常夜灯に火をつけ無事を祈り、隣へと引き継ぎ、この制度は太平洋戦争の頃まで続けられたといいます。

西府村役場跡

明治22年に四ツ谷、本宿、中河原の三ヶ村が合併して「西府村」となり、明治35年、ここへ役場が置かれました。昭和29年には府中町、西府町、多磨村が合併し府中市となりますが、村役場は府中市役所西部出張所として使用されていました。平成元年には文化センター内へ移転されました。

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役場道の碑

この道が旧西府村役場への道だったことから「役場道」と呼ばれていたそうです。
さらに200m程南下、立体交差になっている道の上へ向かい細い路地を入ったところに「板碑出土之地」があります。

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弥勒寺跡と延文の板碑出土之地

1777年(安永6)この地より板碑が発掘されました。ここは古くは弥勒寺があり墳墓の板碑と思われます。板碑には1360年(延文5)と銘が入り津戸勘解由左衛門尉菅原規継の供養碑と考えられています。津戸氏は鎌倉時代から室町時代にかけての御家人として史料に見えることや官職名などから見て南北朝時代の武蔵国官人だったのではないかと考えられており、また菅原姓を名乗っていることから谷保天満宮と密接な関係があったのではないかと言われています。
新府中街道の立体交差の上を通り、西へ40m、地下道を通って南武線を越え第5小学校裏へでます。西府駅方面へ200m、駅裏の公園内に「御嶽塚」がありました。

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御嶽塚

直径約25mの墳丘とその周囲に幅約7mの溝がめぐる円墳でした。江戸時代には信仰の対象として祀られていました。塚上の祠には「御嶽大権現 安政五午年 十一月吉日 小野宮 願主 内藤伊助」の銘があります。

御嶽塚から南ヘ向かい、ハケ(段丘崖)上をハケに沿って250m進とハケを降りる階段があり、下りていくと右手のハケから湧水が流れています。

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西府町湧水

東京の名湧水57選に選ばれている府中崖線から湧き出ている湧水です。水量は少ないですが、都会の中の貴重な湧水です。

さて、目的の「西府町湧水」を見ることができましたので、甲州街道へ戻ります。南武線を越えられる場所がなかなかなく、800mほどかなり大回りしてようやく熊野神社手前から甲州街道へ戻りました。

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熊野神社

創建は江戸初期と伝えられ本宿村の鎮守でした。本殿及び拝殿は江戸時代中期から末期に建築されたものです。
神社の後ろには綺麗に石が積まれた「熊野神社古墳」があります。

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熊野神社古墳

7世紀前半の切石積横穴式石室を持つ古墳で、四角い台座の上に丸い墳丘が重なった変わった形の古墳で全国的にも珍しい形だそうです。
熊野神社古墳の西側の道が「内藤道」、その更に北側に「庚申道」の案内があります。さらに奥のY字路に覆屋があり庚申塔と猿田彦大神があります。

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内藤道・庚申道・庚申塔

内藤道は国分寺村の内藤新田へ通じる道だったことに由来します。明治時代まで沿道にはほとんど人家はなく、畑と雑木林でした。その先には1782年(天明2)の庚申塔があり、秩父道と子の権現の道標となっていたそうですが、案内板にはこの庚申道標は現在熊野神社内にあると書かれていますが、熊野神社では庚申塔が見当たらなかったです。

交差点には庚申塔がありますが、この庚申塔が道標になっていたのでは・・?庚申道はほかに「わらつけ道」、「いな道」、「寺道」とも呼ばれていたようです。

甲州街道へ戻り850m、右手アパート前に石碑がありました。そのすぐ先が旧本田家住宅です。本田家の東側の路地を奥へ進と左手に「本田道庚申塔」があります。

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獅子宿跡碑

谷保天満宮の宝物獅子は947年(天暦元)、村上天皇より賜ったと伝えられ、当初は京より勅使が参向し稽古を行い、舞を奉納したとされます。その後氏子中に伝授され稽古場も民家へ移り、当地佐藤家は文化年間(1804〜1818)より1969年(昭和44)まで数代に渡り獅子宿を提供し尽力されたため建立された碑です。獅子宿は現在、谷保天満宮内へ移されています。
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旧本田家住宅・本田道庚申塔

本田家は江戸時代、下谷保村の名主を務めていました。幕府の馬医者を努めていたため銅葺、4本柱の薬医門で客は馬に乗ったまま門をくぐれるようになっていました。現在は空家のようで、老朽化が進んでいます。

「本田道庚申塔」には右側面に「川ごへ道 庚申待講中」、左側面に「左子のごんげん ちゝぶ道 寛政五癸丑年四月吉日」と刻まれています。1793年(寛政5)の造立です。

本田家から50m、右手に常夜燈があります。

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下谷保の常夜燈

基壇には「文久三年」(1863年)の銘が入っています。かつては回覧板が廻り、交代で火が灯されました。この場所はかつて「あぶらや」の屋号を持つ屋敷でした。
ここから150m、左側に明治35年建立の石鳥居があり、谷保天満宮があります。

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第六天神社・清原元輔歌碑

『わが宿の千世のか わ竹ふし遠みさも行く末の遥なるかな』

清原元輔は三十六歌仙(平安時代の和歌の名人36人)の一人で、藤原定家の『百人一首』にも選ばれています。肥後守で、清少納言の父でもあります。

歌碑は1841年(天保12) 菅原以長の筆で石坂実福の門人が建立したとされます。

堂前の『競技場改修記念碑』は1936年(昭和11)建立、かつて梅林が下谷保青年団の陸上競技場であった頃のものだそうです。

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谷保天満宮(天神之社)

菅原道真を祀った神社で、湯島天神、亀戸天神と並んで関東3大天神と言われています。菅原道真が大宰府に流された時に、道真の三男、道武はこの地に流されました。道真の死後、道武がその姿を彫って祀ったものが谷保天満宮の始まりとされます。

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江戸名所図会に描かれた谷保天満宮

仮谷坂や安楽寺、常磐の清水なども描かれています。

谷保天満宮を奥へ進み、梅の花はもう終わっていますが梅林へ向かいます。梅林には文学碑や記念碑が点在しています。

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孝林道人詩碑・不老軒うたた句碑

孝林道人は南養寺22世孝林碩慶 、七言絶句で漢詩が書かれています。詩碑は1858年(安政5)頃の建立。

『空に香の満てや(梅)に日の匂ふ』

不老軒うたたは文化文政年間に豆腐屋をしながら俳句や狂歌を創作していた戯作者です。蜀山人(大田南畝)などとも交友がありました。

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山口瞳文学碑・原田重久文学碑

谷保天満宮の祭りを描写した『週刊新潮』に連載されたエッセイ「男性自身」の「祭り」の一節が彫られているそうです。山口瞳は女性っぽい名前ですが、男性の作家でエッセイストです。1926年(昭和元)現在の大田区に生まれ、サントリーでコピーライターを経て作家として活躍しています。毎年梅の咲く頃に谷保天満宮の梅林で宴会をしていたそうです。

『風落ちて青田の秩序戻りけり』

原田重久は1901年(明治34)、谷保村生まれ、青年期より短歌・俳句・詩・小説等の創作に励み、昭和21「東京都歌」を作詞、昭和24年よりNHK専属の放送台本を執筆、郷土史の研究も行い「国立風土記」ほか30冊を残しています。碑は昭和56年に建立しました。

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有栖川宮碑

明治41年、有栖川宮殿下が企画した我が国初の「遠乗会」(ドライブツアー)が催されました。日比谷公園から立川までで、折り返し点が谷保天満宮で、梅林で食事をとったそうです。
梅林から本殿へ向かい参拝、宝物殿を左手に見ながら本殿奥へ進み崖を下りていきます。

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谷保厳島神社・常磐の清水

延宝年間(1673〜1681)に筑紫の僧坊が谷保天満宮に詣でたところ、この泉を見て「とこはに湧ける泉のいやさやに神の宮居の瑞垣となせり」と詠みました。これが「常磐の清水」の名の起こりと伝えられています。昔は付近の人々の井戸として使用されていました。

16:40 本日はここまでにし、南武線「谷保駅」から帰宅します。寄り道しすぎました。全然進んでいないですね〜