2020年6月20日

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10:30 前回帰宅した有楽町駅からスターします。梅雨の晴れ間、お天気は上々です。

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日比谷公園

幕末までは松平肥前守らの屋敷地で、明治初期には陸軍練兵所となっていましたが、1903年(明治36)日本初の「洋式庭園」として開園しました。設計は「公園の父」といわれる本多静六を中心に行われました。

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日比谷見附跡(日比谷門跡)

1614年(慶長19)熊本藩主、加藤忠広によって築造され1628年(寛永5)に仙台藩主、伊達政宗により門の石垣が構築された江戸城外郭門の一つです。日比谷門は現在の日比谷交差点付近にありましたが、1873年(明治6)撤去されました。この日比谷公園に残る石垣は日比谷門と山下門の間にあった土手の名残です。

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伊達政宗終焉の地

仙台藩の外桜田上屋敷があったところです。1601年(慶長6)、伊達政宗は徳川家康により江戸屋敷を与えられ、1661年(寛文元)まで上屋敷として使用されていました。正宗の時代には家康が3度、2代秀忠と3代家光はそれぞれ4度訪れたことが記録に残っています。1636年(寛永13)政宗は江戸参勤の折、ここで70歳の生涯を閉じました。
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古代スカンジナビア碑銘譯・南極の石・石貨

古代スカンジナビア碑銘譯は、スカンジナビアの人々が1957年ヨーロッパより北極経由で日本への空路を開拓し、北極航路開設10周年を記念して寄贈されたもので、スカンジナビアのバイキング古代北欧文学碑を模したものです。

南極の石は、昭和基地から4km地点にある東オンブル島の慎太郎山(標高40m)で日本の南極観測隊が採取した重さ150kgの片麻岩です。南極観測船「ふじ」が持ち帰り昭和41年、日比谷公園に設置されました。

石貨

南太平洋のヤップ島(現ミクロネシア連邦)でお金として使われていた石の貨幣です。小さいもので直径6cmから大きいもので3mにも及ぶものもあります。一般に直径の大きさ、表面の滑らかさ、形状の良し悪し、運搬の難易によって価値が決められていました。この石貨は1924年(大正13)頃、1,000円位で通用していたと言われています。米10kgが3.2円くらいの時代ですから現在では125万円くらいと考えられるでしょう。買い物へ持っていくことは難しそうです。

日比谷公園には変わったものがいろいろありますね。

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日比谷松本楼

1903年(明治36)、日比谷公園開園と同時にオープンした日比谷松本楼は、おしゃれな店としてモボやモガのあいだでは「松本楼でカレーを食べてコーヒーを飲む」ことが大流行しました。夏目漱石や高村光太郎をはじめとする多くの文人の憩いの場所となり、詩や小説の舞台としても登場しています。

左手奥の大木が『首かけイチョウ』、かつて日比谷交差点付近にありましたが、1901年、日比谷通りの拡幅工事に伴って伐採されるこのイチョウを日比谷公園を設計した本多静六が自分の首をかけて移植したものです。樹齢は400年以上とされます。

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鶴の噴水

1905年(明治38)頃、東京美術学校(現東京芸大)の津田信夫、岡崎雪声により作製されたもので、公園等での粉飾用噴水としては日本で1番古いものが長崎の諏訪神社、2番目が大阪箕面公園、そして3番目に古いものが日比谷公園の鶴の噴水となっています。当初は鶴と台座も銅製でしたが、戦時中の金属回収により台座は石造りとなりました。

一旦、日比谷公園の西側出口からでると、目の前に弁護士会館や裁判所などの立派な建物が並んでいます。このあたりが大岡越前守忠相の屋敷があった場所らしいです。

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大岡越前守忠相 屋敷跡

八代将軍吉宗に抜擢され、江戸町奉行となった忠相の人情裁きは、講談や落語で広く伝わります。火消制度を作り、瓦葺屋根や土蔵など防火建築の奨励や火除地の設定、火の見制度の確立を推進しました。私娼の禁止、心中や賭博などの取締りを強化、無料の医療施設、『小石川養成所』の創設にも尽力し、大名にまで昇進しました。

現在は弁護士会館となり、隣接地は裁判所など法曹関係の建物が建ち並んでいるとは不思議な縁を感じます。
再び日比谷公園に戻り、公園内を通って甲州街道へ戻ります。

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明治の水飲みとアーク灯

水飲みもアーク灯も1903年(明治36)、日比谷公園開設当時のものです。水飲みは鋳鉄製で、馬も水が飲めるように作られていました。陸上交通を牛馬が担っていた当時が伺えます。アーク灯は園内に10基、ガス灯70基が設置されました。現在は記念に1基ずつ保存されています。

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法務省旧本館

江戸時代には米沢藩上杉家の江戸藩邸でした。1895年(明治28)ドイツ人建築家ヘルマン・エンデとヴィルヘルム・ベックマンの設計により完成しました。その後の1923年(大正12)の関東大震災ではほとんど被害を受けませんでしたが、1945年(昭和20)の東京大空襲によりレンガ壁以外は焼失しました。1950年(昭和25)改修工事を行い、法務省本館として再び利用されました。1994年(平成6)外観を創建当時の姿に復元され、現在も利用されています。

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桜田門

正式には「外桜田門」と呼ばれます。寛永年間(1624〜1644)とされ、現存する門は1663年(寛文3)に再建されたものとされます。1860年(安政7)、この門外で大老井伊直弼が水戸藩脱藩士に暗殺されました(桜田門外の変)

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警視庁

桜田門の向かいにあるため、警視庁のことを「桜田門」と呼ぶようなシーン、ドラマでよく見ます。警視庁は江戸時代、大分の杵築藩松平家上屋敷でした。

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国会議事堂

現在の建物は、1936年(昭和11)帝国議会議事堂として建築されたものです。

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加藤清正・井伊掃部頭邸跡

1596年〜1615年(慶長年間)から熊本藩主、加藤清正の屋敷がありました。2代忠広の時に謀反の疑いがかけられ、1632年(寛永9)に改易となり、屋敷も没収されました。同年、彦根藩主、井伊家がその屋敷を拝領し明治維新まで上屋敷として使用し、当主は掃部頭(かもんのかみ)を称しました。幕末の大老井伊直弼は、1860年(万延元)3月、この屋敷から外桜田門へ向かう途中、水戸藩脱藩者らにより暗殺されました。

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櫻の井

江戸の名水として知られた「櫻の井」は井伊家上屋敷の表門外西側にありましたが、加藤清正が掘ったと伝えられます。1968年(昭和43)道路工事のため、交差点内より現在地へ移されました。「江戸名所図会」や広重の「東都名所」にも描かれています。3本の釣瓶を降ろし、1度に三杯の水が汲めました。釣瓶を釣った屋根の柱束石も両側に残されています。

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電子基準点

衛星測位システム(GPSなど)の信号を常時受信し、地球上の正確な三次元位置を計測、地殻変動をリアルタイムにモニタリングする施設です。2020年現在、日本全国におよそ1,300地点設置されています。

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日本水準原点

ローマ神殿のような素敵なデザインの建築物の中には、日本国土の高さの基準となる水準点が明治24年に設置されました。温度変化の影響を受けにくい水晶板に刻まれ花崗岩台石にはめ込まれ、硬い岩盤に達する約10mの基礎に支えられ、この中に納められています。

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三権分立の時計塔

国会前の公園には、大きな時計塔が天高くそびえていました。正確には「三面塔星型」というようです。立法・行政・司法の三権分立を象徴したデザインで作成されています。

太田道灌

室町時代の末期、太田道灌が『わが庵は 松原つづき海ちかく 富士の高嶺を軒端にぞ見る』と詠んだこの江戸城周辺に日比谷入江があり、松原が続いていました。加藤清正、井伊家、大老井伊直弼が居住し、明治以降は弾正台(警察機関)、次いで参謀本部の所在地となりました。太田道灌は、1457年(長禄元)に江戸城を築き、その後徳川時代には江戸として大きく発展しました。

今では全く面影もありませんが、この付近は入江があり海が近く、松原が続くような景勝地だったようです。

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渡辺崋山誕生地

このあたりには田原藩(現愛知県渥美半島あたり)の上屋敷があり、1793年(寛政5)崋山はここで生まれました。家老として藩政改革や海防政策に業績を残し、画家としては谷文晁に入門し、随筆紀行文なども残しています。

1838年(天保9)アメリカの商船モリソン号を日本が砲撃した事件に危機感を持った崋山は「慎機論」を執筆しますが、幕府の批判を発表することはできず、そのまま放置していましたが、翌1839年(天保10)家宅捜索をうけ幕府の知るところとなり、田原で蟄居を命じられました。その2年後、48歳で自決してしまいました。
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江戸城跡碑・桜田濠

1457年(康正3) 太田道灌が江戸城を築城しました。徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城となり、江戸幕府が開かれると慶長期のおよそ10年の間に大規模な拡張工事が集中的に行われました。

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半蔵門(麹町口)

伊賀者の服部半蔵が配下とともに屋敷を拝領していたため、「半蔵門」と呼ばれたという説、門から場内に入る山王祭礼の山車が枡形門をくぐることができず、半分だけしか入らなかったからという説もあります。

1620年(元和6)仙台藩主伊達政宗などの大名らにより築造されましたが、1871年(明治4)渡櫓門は撤去され、現在は高麗門だけが残り皇居への通用門として使用されています。

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麹町高等小学校跡

千鳥ヶ淵公園の南端に碑がありました。ここに「麹町高等小学校」があったのでしょうか?
「参議院宿舎前」交差点より、少し甲州街道をそれて「番町文人通り」へ寄り道します。

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有島武郎・生馬、里見?旧居跡

薩摩藩郷士で大蔵官僚・実業家の有島武の長男として生まれた有島武郎は幼少の頃はむ横浜で育ち、横浜英和学校、学習院を卒業、後にアメリカに渡りハーバード大学で学びました。東北帝国大学農科大学の英語講師として教鞭をとる一方、弟の生馬(洋画家)により志賀直哉、武者小路実篤らと出会い、同人誌『白樺』に参加します。里見?(小説家)も武郎の兄弟です。

武郎は1923年(大正12)、軽井沢の別荘で愛人と心中しました。この地は、3兄弟の父である有島武が1896年(明治29)自宅を購入した場所です。

「番町文人町」と名付けたのは、作家の有島生馬でした。

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菊池寛旧居跡

芥川賞や直木賞を設立した菊池寛は、1923年(大正12)に文藝春秋を創刊します。有島武郎死後にその一部を借り1926年(大正15)からの1年余りここを自宅としていました。

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泉鏡花旧居跡

泉鏡花は金沢生まれの小説家です。尾崎紅葉に師事し、戯曲や俳句も手掛けました。明治43年から死去するまで「婦系図」のモデルでもあった元芸姑の妻すずとここで暮らしていました。「夜叉ケ池」「天守物語」などはここで生まれました。天守物語は1995年(平成7)坂東玉三郎、宮沢りえ出演の映画となり、また舞台やアニメにもなっています。

番町文人通りには、他にも道木三十五、与謝野晶子、島崎藤村など多くの小説家や画家などの文化人が居住していました。

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番町文人通り

江戸城を警護する家康直属の大番組、番士らが居住する旗本屋敷があったことから「番町」の名が付きました。万一のときには将軍の逃げ道として甲州道へ抜ける道の安全を確保するための軍事的要塞拠点でした。周辺の土地が細分化される中で、こちらのマンション敷地は江戸時代からの450坪ほどの敷地形状が残っています。

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藤田嗣治(つぐはる)アトリエ跡

大正2年、パリに渡りやがてエコール・ド・パリの代表的な画家として活躍、日本人で初めて国際的な評価を得た洋画家でした。昭和12年にこの地にアトリエを新築し、昭和19年に小淵村へ疎開するまで居住していました。日本軍の依頼により多くの戦争記録画を製作しましたが、戦後そのことで糾弾され、昭和24年にフランスへ渡り帰化。二度と日本へ戻ることはなかったということです。
再び、甲州街道へ戻ってきました。右へ折れて「四谷見附」を目指します。

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四谷門跡(四谷見附)

「見附」とは、枡形を持つ城門のことをいい、常時見張りの兵士がおり、出入りは厳重でした。見附の枡形と石垣は長門萩藩主毛利秀就により1636年(寛永13)に、門は1639年(寛永16)に旗本の室賀正俊大岡正清によって建設されました。明治維新後の1872年(明治5)に門が撤去され、枡形と石垣のみが残りましたが、1899年(明治32)枡形と石垣のほとんどが撤去されてしまいました。現在残っている石垣は見附北側の石垣です。江戸には、36の見附があったといいます。

「四谷見附」を過ぎてからは、また甲州道から外れて、南へ向かいます。

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二葉亭四迷旧居跡

小説家、翻訳家の二葉亭四迷が1880年(明治13)から1年間、東京外国語学校露語科に入学し、寄宿舎へ入るまで過ごした地で、父の実家である水野家の屋敷があった場所です。四迷の本名は長谷川辰之助といい、尾張藩士の子として尾張藩上屋敷内(現防衛省)で生まれました。坪内逍遥の指導で創作活動をはじめ、1887年(明治20)言文一致体(である調)による日本で最初の小説「浮雲」を発表、さらに「あいびき」「めぐりあい」などのロシア文学を翻訳するなど日本の近代文学の先駆けとなりました。

小さな説明板が建つのみです。

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西念寺

服部半蔵は徳川家康の旧臣で槍の名手として、また伊賀者の頭領として知られています。家康の長男、信康の切腹に際し介錯を命じられた半蔵は任を果たすことができず、以後信康の冥福を祈るため仏門へ入りました。麹町清水谷に「西念寺」を建立、1634年(寛永11)江戸城外堀の開削に伴い、西念寺は現在地へ移転しました。本堂には三方ケ原の戦功により家康より拝領したと伝えられる半蔵の槍が保存されているそうです。
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服部半蔵の墓

「鬼の半蔵」として知られ、1572年(元亀3)三方ケ原の戦い、1590年(天正18)小田原攻めで功をあげ、家康の江戸入府後は江戸城半蔵門近くに居を構え、城の警備等にあたっていました。

西念寺には信康の供養塔もあります。信康が切腹を命じられたいきさつは諸説ありますが、武道に長け勇猛果敢だった反面、気性が激しく非情な行いも多々あり、家康の命令も聞かず織田信長を軽視するような発言があり、また織田信長に謀反を疑われることなどがあったようです。

また、紀行家で「玉川泝源日記」(天保13刊)の著者である山口早苗の墓、幕府儒官であった勝田半斎(天保2年没)の墓もあります。

西念寺を出て、甲州街道へは戻らずに観音坂を下っていきます。

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観音坂

名の由来は真成院の潮踏観音に因みます。別名は西念寺坂、潮踏坂、潮干坂。潮踏観音は潮の干満につれ像の台座が湿ったり乾いたりするので潮干観音とも呼ばれました。
真成院は現在、お寺というよりビルのような造りで中に入ることが躊躇され、潮踏観音を見ることはできませんでした。

観音坂を降りきり、西へ1つめの東福院坂を登っていきます。

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東福院坂(天王坂)

坂の途中にある「阿祥山東福院」に因み「東福院坂」と呼ばれています。別名の天王坂は明治以前の須賀神社が牛頭天王社を称していたため、この辺りが天王横丁と呼ばれていたことによります。

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愛染院

寺伝によれば、弘仁年間(810?824)、麻布善福寺の奥の院として創建したのが始まりといい、その後、麹町貝塚に移り1634(寛永11)、四ツ谷御門の造営や外濠の拡張などにより現在地に移転しました。空海(弘法大師)ゆかりの寺を巡る御府内八十八ヶ所霊場18番札所でもあります。

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愛染院の梵鐘

梵鐘は1760年(宝暦10)に鋳造され、第二次世界大戦で供出されましたが、貴重な鐘として返却され、現存しています。奥の墓地内に内藤新宿を開設し、問屋・本陣を経営した「高松喜六」と『群書類従』、『続群書類従』の編者として名高い国学者「塙保己一」の墓があるようですが、墓地内立入禁止と書かれており、これ以上は入れないようでした。

高松喜六

内藤新宿の生みの親で元は喜兵衛といい、浅草の名主でした。喜六は当時、甲州街道の日本橋を出発して最初の宿場である高井戸宿まで四里余り(約16km)と遠かったため、1697年に同士4名により幕府に内藤家下屋敷の一部(現在の新宿御苑北側)に宿場を開設する請願を提出し許可されました。喜六は宿場開設資金5600両を納め、問屋、本陣を経営しました。喜六は1713年(正徳3)に没しましたが、高松家は代々内藤新宿の名主を務めました。墓石右側面には「内藤新宿開発人高松金八友常」と刻まれているそうです。

塙保己一(はなわ ほきいち)

塙保己一は1746年(延享3)に現在の本庄市児玉町に生まれました。7歳で失明し盲目というハンデを負いましたが、13歳で江戸へ出て学びます。1783年(天明3)、検校(盲人の最高位)となり、水戸藩の「大日本史」の校正なども手掛け、1793年(寛政5)には和学講談所を開設しました。1819年(文政2)、「群書類従」を完成させ、「続群書類従」の編纂半ばで没しました。墓所は当初近くの安楽寺に作られましたが、1898年(明治31)廃寺となったため、愛染院へ移されました。「群書類従」は古代から近世までの歴史、文学、宗教、言語、音楽、法律、その他各分野にわたる全書目を分類収録した一大叢書(そうしょ)です。
北へ向かい、甲州街道へ戻り西へ向かっていきます。『甲州街道歩き』としては、なかなか進みませんね。

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お岩水かけ観音

四谷といえば「四谷怪談」、足を運びませんでしたが、四代目鶴屋南北の「東海道四谷怪談」の主人公お岩の伝承をもつ神社「於岩稲荷田宮神社」もあります。スーパー丸正の社長さんがお岩さんにあやかって、作ったそうです。

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長善寺(笹寺)

1575年(天正3)、「甲陽軍艦」の著者として知られる甲斐国、武田氏の高坂弾正昌信の居所に置かれた草庵からとされます。四谷の多くの寺院が、1634(寛永11)以降に麹町から移転してきたものですが、最善寺は古くからこの地に創建されていました。

『笹寺』縁起

二代将軍徳川秀忠が鷹狩の途中に立ち寄り、境内に笹が繁っているのを見てつけたものだとも、(「江戸名所図会」など)、また寺伝では三代将軍徳川家光が江戸巡覧をした時のことだともいわれる。寺の宝物となっている「めのう観音」が秀忠の念持仏で、秀忠の死後に夫人の崇源院が寄贈したという伝えや(夫人の念持仏との説もある)、開山の憐学和尚が1632年(寛永9)に没していることなどから、将軍秀忠の時代(1605-1623)のことと考える方が自然のようであると書かれています。

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四谷勧進角力始祖の碑(右)

力士明石志賀之助が寛永元年に境内で6日間の相撲興行をしたのを、江戸の勧進相撲のはじめとして東京大角力協会が建てたものとされています。

江戸の勧進相撲が始まったのは、宝暦年間(1751〜63)といわれています。主として行われたのは深川八幡とされますが、定まった場所はなく、神社や寺院で行われていました。笹寺もその一つだったのでしょう。

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蟇塚

「がまづか」と読めばいいのでしょうか。「蟇」は、ヒキガエルの意です。慶応義塾大学医学部生理学教室において実験に使われた諸動物の供養のために慶大加藤博士らによって昭和12年に建立されたものです。諸動物の犠牲の上に現在の医療があるということを痛感します。

長善寺(笹寺)の墓地には、国学者林国雄、画家で国語学者の林武臣、明治の大泥棒、怪盗稲妻小僧の墓などもあります。

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斎藤茂吉終焉の地

空襲で南青山の自宅を失った後の1950年(昭和25)から亡くなるまでの約2年間を過ごした地です。

ビルの柱に説明文が埋め込まれています。

斎藤茂吉

山形県上山市の農家の三男として生まれた茂吉は、14歳で上京後、医師斎藤紀一が開く浅草医院に間借りし、第一高等学校に学び、東京帝国大学に入学、卒業後は長崎勤務、ヨーロッパ留学を経て養父が院長を務める青山脳病院に勤務しました。1924年(大正13)病院が全焼すると養父に代わり院長となり再建に尽くしました。歌人としては大学入学前後より作歌をはじめ、「アララギ」の創刊に参加し、その後「赤光(しゃこう)」、「あらたま」、「つゆもじ」など多数の歌集を発表しました。晩年も体調が優れない中、「石泉(せきせん)」「霜」を刊行しました。
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四谷大木戸跡碑

大木戸は宿場の入口に設置され、人や物の出入りを管理していた場所です。

明け六つ(午前6時頃)に開門し、暮六つ(午後6時頃)に閉門されていました。

1590年(天正18)家康が関東入国後に関屋を設けた時から始まり、1792年(寛政4)には木戸は取り壊され、自由に通行できるようになりました。

実際の大木戸の位置はここより80m東の四谷四丁目交差点でした。昭和34年に地下鉄丸ノ内線の工事で出土した玉川上水の石樋を利用して作られた碑です。

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水道碑記

ここは、江戸時代に玉川上水の水量や水質を管理した水番所のあったところです。それを記念して、1895年(明治28)に石碑が建てられました。漢文で玉川上水建設の理由や、請け負った玉川兄弟の事績をたたえた内容が記されています。

玉川上水

玉川上水は多摩川の羽村堰で取水し、四谷大木戸までは開渠で四谷大木戸から江戸市中へは石樋や木樋といった水道管を地下に埋設して通しました。地下九尺(約3m)を流れていたといいますから驚きます。水番所には水番人1名が置かれ、水門を調節して水量を管理したほか、ゴミの除去なども行っていました。江戸の人口は100万ともいわれ、世界で最も人口の多い都市であったとされていますが、その理由の一つには安定した上水の供給であったといいます。

玉川兄弟は、兄の庄右衛門、弟の清右衛門、二人が上水開削の指揮をとり、成功へ導いた兄弟であり、「玉川」という名字を名乗ることが許されました。

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新宿御苑

信州高遠三万三千石の城主であった内藤大和守の屋敷があった場所です。徳川氏の関東入国直後に広大な屋敷地を拝領しました。内藤新宿、内藤町という地名も内藤氏に因んだものです。
内藤大和守屋敷(現在の新宿御苑)西側は、「千駄ヶ谷村」でした。千駄の萱を刈り取ったということから名がついたといいます。

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内藤新宿

四谷大木戸を出て甲州街道1番目の宿でした。内藤駿河守の下屋敷があったことから「内藤新宿」と言われました。1808年(文化5)の記録には、旅籠50軒、茶屋80軒、宿場の外は武蔵野を切り開いた畠地でした。農産物はで江戸市中へ運びこまれ、馬と馬糞の宿場でした。歌川広重の「内藤新宿」にはまるまる太った馬のお尻と地面には馬糞が描かれています。面白い構図ですね。広重の内藤新宿の印象が一目でわかりますね。

さらに、甲州街道は武家の往来が少ない街道でしたが、商品の輸送は多く、馬や馬糞にまつわる川柳や俗信が多く残っています。新聞記者で自由民権家の肥塚龍(こいづか りゅう)も甲州街道名物として「牛洩馬糞の塵」をあげています。

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太宗寺不動堂

慶長年間初頭(1596年頃)に僧太宗の開いた草庵を前身とし、後の信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した寺院です。かつての内藤新宿の仲町に位置し「内藤新宿の閻魔」「しょうづかのばあさん」として江戸庶民に親しまれた閻魔像、奪衣婆像(だつえばぞう)や江戸六地蔵など多くの文化財が残されています。
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地蔵菩薩像

江戸時代前期、江戸の出入口6箇所に建立された「江戸六地蔵」の一つです。1712年(正徳2)、江戸六地蔵3番目として甲州街道沿いに建立され、製作者は神田鍋町鋳物師太田駿河守正儀です。

72,000人もの寄進者を得て建立したもので、お地蔵様の体のいたるところ、土台の石垣まで名前が刻まれています。深川水代寺の地蔵菩薩は廃仏毀釈により取り壊されていますが、5体が現存しています。

江戸六地蔵の由来

像の内部に奉納されていた刊本「江戸六地蔵建立之略縁起」によれば、江戸深川の地蔵坊正元が不治の病にかかり、病気平癒を両親とともに地蔵菩薩に祈願したところ無事に治癒したことから、京都の六地蔵にならい1706年(宝永3)造立の願を発し、人々の浄財を集め江戸市中六ケ所に造立したと伝えられています。

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塩かけ地蔵

太宗寺には塩に埋もれたお地蔵様がありました。おできにご利益があり、お地蔵様のお塩を少し頂いて帰り、幹部にその塩を塗り込むとおできが治ると言われているそうです。治った後は、塩を倍にしてお返しするのだそうです。

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内藤家墓所

1691年(元禄4)より幕末まで高遠の藩主を務めた譜代大名、内藤家の墓所です。元々は300坪、57基の墓碑がありましたが、1952年(昭和27)現存の3基に改葬し、現在地へ移されました。中央が5代、内藤正勝(寛永6年建立)、右側が13代頼直、左側が内藤家累代の墓塔です。いずれも明治時代の建立です。本堂左手墓地内の奥にあります。

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切支丹灯籠

1952年(昭和27)、内藤家墓所から織部型灯籠の竿部分(脚部) が出土しました。現在は上部も復元されていますが、江戸時代中期に作られたと考えられています。江戸時代、幕府のキリスト教弾圧に対して隠れキリシタンが密かに礼拝したとされるもので、灯籠の全体の形状は十字架を、また脚部の彫刻はマリア像を象徴したものとされ、「マリア観音」とも呼ばれています。脚部が出土したとのことですが、脚部はかなり綺麗なもので、本当に江戸時代のものでしょうか・・

本堂右手建物(社務所?)前の植え込みにありました。

織部型灯籠

織部型灯籠は、戦国時代から江戸時代初期の武将であり、大名、茶人としても有名であった古田織部(古田重然)が好んだ灯籠でした。織部は千利休に弟子入りしたと考えられ、のちに利休七哲に数えられています。豊臣秀吉、徳川2大将軍、秀忠の茶の湯指南役ともなっています。古田織部が好む茶器製作・建築・庭園作庭などを「織部好み」と呼ばれ一時代の流行を作った人でもあります。

太宗寺を出て、更へ北の成覚寺へ向かいます。

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旭地蔵

1800年(寛政12)から1814年(文化10)の間に宿場内で不慮の死を遂げた人々18名の戒名が刻まれています。そのうち七組の男女はなさぬ仲を悲しんで心中した遊女と客であると考えられています。寛政12年に宿場の人々により玉川上水北側へ建立されましたが、1879年(明治12)道路拡幅に伴い、正覚寺へ移されました。

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恋川春町の墓

江戸小石川春町に住んでいたことから春町と号し、浮世絵師・狂歌師・戯作者として活躍しました。多くの書に挿絵などを描いていましたが、1775年(安永4)自画自作の「金々先生栄花夢」を出版し、世相・人情の風刺を試み、多くの追随作を生み「黄表紙」という新しいジャンルを開拓し文学史上に大きな影響を与えました。

黄表紙

黄表紙は、大人向けの一種の絵本のような作りで、言葉や挿絵の中に滑稽、風刺などの遊びの要素が盛り込まれ、ふきだしのようなものが描かれるなど現代の漫画に通じる表現技法もあります。江戸時代中期に流行しました。

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子供合埋碑

内藤新宿の飯盛女は「子供」と呼ばれていたそうです。飯盛女(遊女)は、亡くなると身ぐるみ剥がされ、米俵に入れられこの寺に投げ込まれていたそうです。そんな悲しい飯盛女を弔うため、1860年(万延元)に旅籠屋の人々で建立しました。元々は墓地の最奥にありましたが、昭和31年の区画整理により現在地へ移されました。

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白糸塚

1852年(嘉永5)鈴木主水と内藤新宿橋本屋の遊女白糸との情死話を元にした芝居が大成功したお礼として、歌舞伎役者、二代目坂東秀花が成覚寺に参拝した際に建てたものです。
16:00 本日はここまでとします。東京は往時の面影はほぼ失われていますが、石碑など僅かな痕跡は多く残されています。江戸時代から人口が多かったため、たくさんの人々の小さな遺構が随所にあります。甲州街道歩きとしてはほとんど進みませんが、ゆっくり進みましょう。

東京メトロ「新宿三丁目駅」から帰宅します。