2022年4月16日

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12:00 花咲宿をあとに次の初狩宿へ向かいます。国道を進みますが甲州街道は笹子川右岸を通っていました。右手の大月警察署を過ぎた左手にJRの線路のほうへ向かう道が甲州街道ですが、その先は廃道となっていますので、このまま国道を進み真木橋を渡ります。

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真木橋と笹子川

笹子山の南谷の間に源を発し、黒野田宿の北を流れ阿弥陀海道宿に至り、東流して白野宿の南から中初狩宿、下初狩宿へ諸川と合流し桂川に合流するまで水源から約18kmです。笹子川では鮎の漁猟が行われ、上納されていました。

真木橋を渡って110m、歩道橋がある真木交差点右手に「平井圭斎先生之頌徳碑」「福正寺の道標」があります。

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平井圭斎先生之頌徳碑

地元の真木で開業医として活躍し、北都留郡医会の設立当時の明治34年、評議員もされていたようです。父は「玄堂塾」を真木で開いていたといいます。

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福正寺の道標

「親鸞聖人舊蹟大布号」「従是道程十八丁」と彫られています。2kmほど北にあります。聖人が布に「南無阿弥陀仏」と名号を書いた「太布(たふ)の名号」と呼ばれる布が本堂が火事の際北へ飛び去り、落ちた場所は光を放ち「間明野」と呼ばれるようなり、その場所に名号堂が建てられたそうです。名号堂は福正寺より北へ1.5kmほどの場所です。
真木交差点から国道を300mほど進むと右手に「真木諏訪神社」の参道があります。

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真木諏訪神社

創建は明らかではありませんが、1814年編纂の「甲斐国志」には真木村の産神と記されており、1760年(宝暦10)と1796年(寛政8)の棟札も残されているといいます。参道の石鳥居は1785年(天明5)名主により奉納されたといい、境内には秋葉神社も祀られていました。
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本殿

棟札によると1827年(文政10)に再建された本殿は、真木村の大工、金左衛門を筆頭に25名の大工によって建築されました。大月市の文化財となっています。

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彫刻

本殿の見事な彫刻は桃山時代の流れを汲み、八王子の籐兵衛親子の作と考えられています。

特にこの彫刻が好きですね。見ているとこちらも自然に微笑んでいる不思議な彫刻です。

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大月西小学校跡碑

1873年(明治6)真木学校として創立し、いくどか名称を変更しながら1947年(昭和22)に「大月西小学校」と改称、1965年(昭和40)新校舎へ移転しました。

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甲州街道ではない迂回ルートの国道をひたすら歩き540m、左手にようやく「源氏橋」が見えてきます。

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源氏橋で笹子川を渡ります。

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甲州街道

源氏橋を渡り左からくる道が旧甲州街道です。笹子川右岸を通っていた甲州街道はここへ出てきていました。途中までは道が残っているようです。さらに甲州街道は甲州砕石のほうへ入っていく道です。ここも通行できなくなっています。
TOO001 源氏橋を渡り右へ曲がり、JRに沿って作られている迂回ルートを進みます。アスファルトの道はやがて未舗装となり、旧道感はあるのですが・・・甲州街道ではありません。

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道沿いには山吹が多く、きれいに咲き誇っていました。
S字にカーブしている道を過ぎると左手から甲州砕石事務所から下ってくる旧甲州街道と合流します。少し戻り「丸山」へ寄って行きます。甲州砕石の入口の道ですが、徒歩であれば丸山までは行くことができました。合流地点から80mほど甲州砕石へ入り左手の丸山麓に石仏群があります。

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丸山の石仏群

馬頭観音が9基、他に巡礼供養塔や六十六部供養塔など多くの石仏があります。周辺から集められたものでしょう。
そのすぐ先、甲州砕石事務所の手前左手に細い道があり、くねくね上ると丸山頂上に「駒形権現之社」があります。

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駒形権現之社

現在は鳥居のところに〇〇神社と書いてあるのですが、消えかけていて読めませんでした。由緒なども不明ですが、甲州道中分間延絵図が描かれた1806年(文化3)以前から祀られていました。

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甲州道中分間延絵図に描かれた「丸山」

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丸山からの景色

丸山は自然の地形を利用して権現山(丸山)一里塚としていました。
丸山を下り甲州街道へ戻ります。丸山を下りて180m、左手に数基の石仏があり、その先130m踏切を渡ったすぐ先右手に大きな「聖護院道興歌碑」があります。

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石仏

馬頭観音や石祠などが並んでいました。

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聖護院道興歌碑

『今はとてかすみを分けて帰るさに おぼつかなしや はつかりの里』

1487年(文明9) 聖護院道興は岩殿山に参詣の後、この地を通り過ぎる折に詠んだ歌といわれます。碑は1806年(文化3)、「甲斐国志」の編者、森嶋基進によって建立されました。

聖護院道興

関白近衛房嗣の子で仏門に入り大僧正となり、本山派修験宗(天台系)の総本山聖護院の門跡(もんぜき・住職のようななもの)を勤めました。諸国を行脚し、各地の霊場や名所を訪ね「廻国雑記」を残しています。

聖護院道興歌碑の向かいあたりに往時は高札場があり、ここから下初狩宿となります。下初狩宿内の住宅地を200m進むと国道20号線と合流し宿場の中心部へ入ってきました。国道へ出て100m右手に「下初狩宿本陣」があり、本陣前に「山本周五郎生誕地碑」がありました。

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下初狩宿本陣

奥脇家が務めていました。多少の改修が行われていますが、上段の間も残っているそうです。

下初狩宿

下初狩宿は、元は笹子川の北岸にありましたが、1672年(寛文12)の大水害により民家が全て流出したため、南岸に移住し北岸の旧地を「古宿」と呼んでいます。下初狩宿には本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠12軒がありました。中初狩宿と合宿のため、一ケ月のうち下旬の継立てを務めていました。甲州道中分間延絵図に描かれた「丸山」の北に「古宿」も描かれています。

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甲州道中分間延絵図に描かれた「下初狩宿」

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山本周五郎生誕地碑

時代劇の名手、山本周五郎は1903年(明治36)、ここで生まれ、本名は清水三十六(さとむ)、1907年(明治40) 笛吹川流域を中心に大洪水があり、初狩村は壊滅的被害を受けました。周五郎一家は大月駅前に転居していたため難を逃れましたが、祖父・祖母・叔父・叔母を失っています。

山本周五郎

後に東京、横浜へ転居し様々な職業を経て1926年(大正15)、『文藝春秋』に応募した『須磨寺附近』が掲載され、文壇デビューしました。ペンネーム「山本周五郎」は当時勤務していた山本周五郎商店からきています。その後は順風満帆とはいかず、なかなかヒット作は出なかったようですが、1931年(昭和6)頃から時代小説を書くようになり、昭和11年頃には超売れっ子になったようです。1948年(昭和23)、横浜本牧の高台の景勝地、旅館「間門園」を仕事場とし、数々の名作が生まれてきましたが、1967年(昭和42)間門園で死去。1988年(昭和63)「山本周五郎賞」が新潮文芸振興会により創設されました。

本陣の先が問屋跡、その向かいが脇本陣でした。本陣のすぐ先右手に二十三夜塔と常夜灯があります。

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二十三夜塔

常夜灯は半分ほどが改修されているようです。
初狩駅へむかう道まできました。まだここは下初狩宿の中央くらいですが、本日は初狩駅より帰宅しますので、ここで左に曲がり駅へ向かいます。駅前に「山本周五郎文学碑」がありました。

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山本周五郎文学碑

「山彦乙女」の一節が刻まれています。

小説は読んだことはないのですが、NHKでドラマ化されていたものは結構見ました。冒頭の「山本周五郎を知っていますか?時代小説の名手です」というフレーズを今でも覚えています。また映画の「雨あがる」も好きでした。

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初狩駅

14:20 初狩駅到着です。花咲宿から初狩宿までは前半は国道となっており、ほとんど甲州街道時代の面影はなく、後半は旧甲州街道を通れない部分が多く残念でしたが、旧道風迂回路は静かで花も多く楽しく歩けました。