2023年5月1日
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今日はとってもいいお天気です。雲ひとつ無い青空が広がっています。
背合バス停
海のすぐそばにポツンとあるバス停は素敵でした。 8:40の小木線バスの小木行きに乗車し、昨日のゴールとした「高崎バス停」で降車します。国道にあるバス停から一本奥の旧道である高崎集落へ入っていきます。
高崎集落と西三川村道路元標
高崎集落は1955年(昭和30)真野町と合併するまでは、西三川村の役場や郵便局が置かれた場所です。郵便局は現在もありました。 高崎集落を進むとすぐに国道へ合流し、右手に「塩掛鼻とミオジプシナ石灰岩」の案内板があり、そのすぐ先に「高崎の石塔群」があります。
高崎の石塔群
秋葉山塔、出羽三山塔、1790年(寛政2)の真言供養塔が並んでいます。1988年(昭和63)国道350号線の道路改良により現在地へ整備されました。 国道を進むと右に大きくカーブして西三川川を渡るようになっていますが、往時は真っ直ぐ西三川川を渡り、西三川集落へ入るようになっていたようです。河口には以前は木橋があったそうですが、現在はありませんので、国道の橋で西三川川を渡り、すぐ先左手から西三川集落へ下っていく道を進みます。
西三川集落
街道の雰囲気が残る西三川集落を進み、突き当りの最後の1軒の前を左へ曲がり、住宅西側の未舗装の道を奥へ入っていくと海岸段丘を上る坂道が残っています。
番屋地蔵・西三川一里塚跡
古くは「番屋の堂」と呼ばれていたようです。この堂の場所に江戸時代は番屋がありました。「番屋」という屋号の藤井家は海辺へ移転されているそうです。 一里塚は昭和の頃までは、海側のみ1.2mほどの高さで残っていたようですが、現在は確認できません。
番屋地蔵の石仏と道標
堂の裏には「法印憲盛供養塔」やよくわからない石仏が数基あり、その中に「檀特山道」と彫られた道標がありました。「檀特山」は相川石名にある標高903mの山です。古い民謡に「お山・檀特山・米山薬師、三山かけます佐渡三宮」と歌われ、金北山(お山)・金剛山(米山薬師)と並び、大佐渡三霊山と言われています。 檀特山へ向かう信仰の道としても相川街道を通っていたと思われます。
西三川一里塚跡から150mほど進むとアスファルトの道が途切れ、未舗装の道になります。「相川街道」の標柱が建っています。
トラックの先が旧道です。あまりに荒れていたので、ちょうど近くにいらした地元の方にこの先いけるのかどうか聞いてみました。荒れているけれどなんとか行けると思う・・ということでガンガン進んでいきました。
アズマネザサのような背の高い笹に覆われ、なかなか進むのが大変でしたが、50〜60mほど進むと普通の山道となり、小川を越え楽しい道になってきました。途中、分かれ道などありますが、真っ直ぐ進みます。300mほどでアスファルトの道へでます。そのまま正面のアスファルト道を進み、450mほどで左手に小さな「地蔵堂」があります。
田切須の地蔵堂と二十三夜塔
堂の前に二十三夜塔があり、1800年(寛政12)、1859年(安政6)の銘のある石仏もあります。 地蔵堂前の坂を30mほど下ると右手に笹のトンネルのようになっている未舗装の旧道へはいります。このあたりもジャングルで、なかなか歩きにくいですね。畑の脇を抜けて、150mほどで国道へでます。国道を150mほど進むと右手に「諏訪神社」、その向かいに庚申塔や秋葉山塔などがあります。
田切須の諏訪神社
1350年(観応元)創建と伝えられる古い神社で、田切須の鎮守です。「歴史の道調査報告書」によると神社前には大きな遊水池があり、境内には町立保育園があると記されていますが、現在は遊水地も保育園もないようです。
倉谷不動尊
昔、倉谷の若者が海辺の波打ち際で拾った不動尊との言い伝えがあります。お祭りの日には人形芝居や浪曲などの催し物もあり、盛況だったとされます。海側へ500mほど行った「智光坊」が管理しています。
倉谷の馬頭観音
左へ曲がり旧道へ合流し、未舗装の旧道を進みます。しばらく山道を歩くと右手に「神明社」、アスファルトの道へ出るとすぐ左手の集落センターに「延命地蔵堂」があります。
神明社
延命地蔵尊
「大立集落開発センター」と書かれた建物の一部が地蔵尊となっていました。子宝地蔵、安産地蔵、延命地蔵などが祀られています。 この先、左の未舗装へ入り150mほど進めましたが、明確な道はなくなり個人の所有地のような感じになってしまいましたので、延命地蔵尊のあたりまで戻り国道を進みました。 国道を300m進み右手へ入る道を上り、カーブのあたりが旧道と合流するあたりと思われます。カーブから40m先の左手に旧道が残りますが、その前に旧道へ入らず数メートル先の右手に石仏群があります。
旧道と番所跡
山道の旧道へ入っていくと、くねくね曲がりながら下っていきます。少し平らな所に番所小屋があったようですが、今は案内の標柱があるのみです。 国道へでると右へ曲がり、すぐ右手に大きな記念碑、その先に顕彰碑がありました。
顕彰碑
金子鶴松氏の顕彰碑です。金子氏は大倉田漁業組合が興されると組合長として漁港の改築や道路整備を行い、またその他の公職も兼任し、その功績を讃えて1972年(昭和47)この顕彰碑が建てられたようです。隣りにある焼き物が、鶴松氏のお顔なのでしょうか?
旧道と石仏群
100mほど進むと右手から旧道へ入ります。雰囲気のいい旧道を100m進むと左手に多くの石仏が集められた一角があります。ほとんどが石地蔵です。 道なりに150m、Y字路を左へ曲がる角に大きな「真言供養塔」があります。
西大須の地蔵堂
地蔵堂の前には1866年(慶応2)の二十三夜塔、真言供養塔などがあります。地蔵堂から少し奥へ入ると1799年(寛政11)の銘がある宝篋印塔が並んでいます。
大山祇神社
山の神ですが、このあたりは鉱山があり鉱山の鎮守とされてきました。この先の相川街道旧道は三叉路になり左手へ進み、そこから先は往時「鉱山道」と呼ばれていたようです。 現在も人家はありますが、往時も鉱山道の両側には人家が点在し、鉱山で使用された石臼を所有する家も数軒あるそうで、奥には大工町という鉱山労働者の住宅もあったようです。
雑草がありますが、つづら折れの道を三貫目沢に向かい段丘を40mほどおりていきます。
三貫目川を小さな橋で渡ると旧道はまだまだ続いていました。
東大須の馬頭観音堂
お堂内には馬頭観音像と如意輪観音像を中心に小さなお地蔵様がたくさん祀られています。
静かな集落を300mほど舗装された道を進み、灯籠?道標?ようなものがあるところを右手へ曲がり、坂を上っていきます。
大須から背合へ入っていき、田園が広がるのどかな集落を道なりに700mほど進むと左手に「背合十王堂」があります。
背合十王堂
建物がボロボロで今にも倒壊しそうですが、中には本尊の十王が祀られています。境内には大型の真言供養塔や六地蔵、宝篋印塔などが安置されています。 背合十王堂から少し行くとT字路になり、ここを右へ曲がります、左へ曲がると昨日宿泊した「ふれあいハウス潮津の里」です。右へ曲がると集落の中を通り抜け、集落が途切れた路地を左へ。水田の中を抜け段丘を下りていきます。再び水田の中の相川街道を抜け、再び段丘を下るとT字路となり、右へ曲がります。このT字路に「滝脇の石塔群」があります。
地蔵堂
赤泊道追分にある小さな地蔵堂です。堂の前には真言供養塔もあります。
豊田岩野 十王堂
「第47番 伊豫の八坂寺」と書かれています。愛媛県松山市の八坂寺のことのようですが、関係性は不明です。 石造物の中には1808年(文化5)の「城主足立兵庫守」の供養塔があるらしいのですが・・宝篋印塔の中のどれかですかね?
豊田諏訪神社と能舞台
江戸時代までは西三川の小布施神社が豊田の鎮守でしたが、1878年(明治11)、豊田内の大光寺の境内にあったという諏訪神社が古城の地に移され豊田の鎮守となりました。 能舞台の正面には松の絵、天井には「道成寺」で使用される鐘穴を備えられています。1922年(大正11)に建てられた舞殿で、能を含む各種芸能用の多目的舞台として使用されていましたが、1984年(昭和59)に能舞台として改修されました。
庚申塔・青面金剛像
古い文献には一里塚のすぐ近くに庚申塔と青面金剛像があったと記されていることからも、この付近が一里塚だったことは間違いなさそうです。 細い階段を通り海岸段丘を下っていきます。この坂は「城の坂」と呼ばれています。「皇国地誌」によると段丘をおりたところに豊田の道路元標があったとされますが、現在は紛失しています。
岩野道完成記念碑・町道豊田幹線竣工記念碑
1986年(昭和61)に完成した岩野道の完成記念碑、岩野道はこのカーブしている道でしょうか? 国道を渡り正面の建物が「渋手浦目付所跡」です。円山溟北(まるやまめいほく)
1818年(文政元)佐渡で生まれ、儒学者丸山学古の養子となり、後に江戸へ出て佐藤一斎、亀田綾瀬に学んだ後、佐渡へ戻り養父の学古塾を再興しました。後に佐渡奉行所の修教館教授を務めています。明治時代に活躍した佐渡出身者の殆どは彼の教えを受けているとされ、佐渡の吉田松陰と称されました。
大日堂
江戸時代は十王堂と呼ばれていました。堂内には真輪寺(現真野宮)の室町時代の阿弥陀堂本尊も寄進され残っています。のろま人形芝居
佐渡市には、古くから「説教人形」「のろま人形」「文弥人形」の三つの人形芝居がありました。 「のろま人形」は、江戸時代初期、江戸の野呂松勘兵衛が始めたのが最初とされます。芝居は2人の人形遣いの掛け合いで、時事ネタや風刺なども交えながらその場の雰囲気に合わせた話を展開し、笑いをとる漫才のようなもののようです。享保年間(1716〜36)に佐渡へも広まったとされます。有田八郎
有田八郎は2歳のときに相川大工町へ養子となり、有田姓となっています。東京大学を卒業後、外務省へ入省。1936年(昭和11)に外務大臣として入閣。政界を引退後の1961年(昭和)三島由紀夫の小説「宴のあと」が発表され、有田八郎と再婚した料亭経営者畔上輝井がモデルとされ、プライバシーを侵害するものとして、三島由紀夫と新潮社を訴えた事件は有名です。
本陣山本家
山本半右衛門家。相川街道、宿場の「新町(真野新町)」の本陣でした。山本家の祖は越前藩士、山本清九郎で遠祖は山本勘助と言われています。1630年(寛永7)佐渡へ渡り、相川金銀山の山師として稼ぎ、1672年(寛文12)新町へ移住。滝脇鉱山を採鉱と共に酒造や廻船を行い、町年寄などの要職を世襲しました。 1713年(正徳3)本陣となり、以来幕末の1866年(慶応2)まで使用されました。郷土史家の山本静古(半蔵)、「佐渡叢書」などを著した山本修之助はこの家から輩出した人物です。「佐渡百話」は二人の共書です。 本陣山本家のお庭には山口誓子の「先づ見しは蘇鉄の青き照葉なり」の句碑と加藤楸邨の「大蘇鉄いつ雪がこひとかれけむ」の句碑があるそうですが、宅内のため見ることはできませんでした。 本陣ができるまでは、山本家から100mほど手前左手に「茶屋屋敷」があり、奉行達はそこで村役人から接待を受けたと言われています。 本陣の向かいには「尾畑酒造」があり、その2軒先に「司馬凌海生家跡」があります。
新町大神宮
新町の鎮守として1872年(慶長5)に勧請され、往時は「神明社」と呼ばれていました。境内には塩釜神社、猿田彦大神、椿大明神、善宝寺などが合祀されています。以前は島内力士による大相撲もありましが今は途絶えています。1977年(昭和52)からは「新町たかみ獅子」が復活し、毎年開催されているそうです。




































