1600年(慶長5)、関ヶ原の戦いに勝利し、江戸幕府を開いた徳川家康が翌年に制定した「伝馬宿駅制度」。東海道五十三次が完成したのは23年後の1624年(寛永元)でした。五街道は、古代の五畿七道に習い設けられたもので、中でも東海道は最も整備された街道でしたが、これは以前からあった古道を整備し直したもので、そのルートはほぼ古来の道を踏襲したものでした。そのため、街道筋には日本武尊伝説をはじめ、多くの歴史上の人物の痕跡に出会えます。また、江戸時代になると一般大衆が旅に出られる時代となって、東海道は多くの旅人で賑わいました。そんな江戸時代の旅人の息遣いが聞こえてきます。
旅をしてみると、古い町並みや名所・旧跡は確かに楽しいのですが、他にもたくさんの楽しさがあります。変わってしまった町並みから変わらない何か小さなものを見つけたとき、珍しい花や樹木、地域によって違うもの、その土地のおいしい食べ物、温泉・・・旅の楽しみは無限大です。きっと江戸時代の旅人も知らない世界を知ることが最大の楽しみだったのでしょう。
私にとって街道歩きの最大の楽しみは「気づき」でした。車で通過してしまえば一瞬の出来ごとで、気づかぬままやり過ごします。ゆっくり歩いて小さなことに気づくき、知らないことを知る喜びが何より嬉しいのです。
日本橋から京へ至るもう一つの街道です。木曽街道や木曽路とも呼ばれます。東海道が太平洋側の海岸近くを通るのに対して、内陸の山の中を通ります。江戸時代には中山道、中仙道どちらも表記されていましたが、1716年(享保元年)に、江戸幕府により「中山道」に統一されました。東海道に比べて大河が少なかったことから川留が比較的少なく、女性は中山道を選択することが多かったということから「姫街道」などとも呼ばれています。
『木曽路はすべて山の中である』島崎藤村の「夜明け前」の書き出しですが、まさにそのとおりで、現代でもその雰囲気を残した場所が多々あります。
北国街道は、中山道追分宿、分去れより分岐し西北に進路を取り上田、善光寺を経て城下町高田へ至る街道です。加賀藩の参勤交代に使用される街道であり、更には佐渡より金が江戸まで運ばれる道でもありました。そのため、高田からは「北国街道奥州道」として佐渡の対岸にあたる出雲崎までが「黄金の道」となります。脇往還として矢代から東廻りで松代城経由で北国街道、神代で合流する「松代道」、中山道洗馬より分岐し北へ進路をとり、松本城を経て北国街道、矢代で合流する「北国西街道」があります。また、善光寺街道とも呼ばれていました。
■北国街道
■北国街道 松代道
■北国西街道 善光寺道
■北国街道 奥州道
■佐渡の街道 相川街道
甲州街道は五街道の一つで、江戸日本橋より信州下諏訪宿で中山道と合流する全長219kmの街道です。当初は
「甲州海道」と呼ばれていましたが、1716年(正徳6)海のない国を通る道が「海道」とは言えないとして、日光海道と共に以後は
「道中」と呼ぶようになりました。
甲州街道を利用して参勤交代を行った大名は諏訪の高島藩、伊那の高遠藩、飯田藩の3藩でありましたが、将軍家御用達の宇治茶が運ばれる
「お茶壺道中」も利用していました。1829年(文政12)からは紀州家の通行も始まります。
家康は甲府を重要な軍事拠点と考え、あえて大名を置かずに天領(直轄地)としています。甲州街道は軍事上の意味が大きかったとされます。
さあ、武蔵野から甲府盆地へ・・・武田信玄ゆかりの地をゆっくり訪ねて歩きましょう。
江戸日本橋から日光東照宮のある鉢石宿までの約140kmを結ぶ街道です。幕府の公道としては
「日光道中」と呼ばれ、日光に向かう旅人や江戸へ商品を運ぶ行商人などが往来していました。
また、伊達家などの奥州勢の脅威から関東一円を防御するための「軍用道路」としても機能していました。
徳川家康が祀られる
日光東照宮への参詣通行は、幕府・諸大名にとって重要な公式行事となっていきます。宿場は21宿あります。